忘れがちな政治リスク

忘れがちな政治リスク

筆者は、安全保障の専門家として大学や学会、シンクタンクなどで研究・教育に従事する一方、セキュリティコンサルティング会社ではアドバイザーという立場で、海外に進出する企業へ政治リスクに関する情報提供、講演などを行っている。7年ほどの経験の中で肌で感じているのは、政治リスクへの関心度は企業によって異なり、タイミングによって大きく変動する、ということだ。

邦人が巻き込まれたテロ事件の典型的な例でいうと、2013年1月のアルジェリア・イナメナス人質事件、2016年7月のバングラデシュ・ダッカレストラン人質事件、2019年4月のスリランカ同時多発テロの直後、テロへの不安が増大し、筆者も多くの相談を受けた。だが、時間の経過とともに企業関係者たちは日常の業務へと自然に回帰していく。

政治リスクとは何か

まず、政治リスクとは何か。政治リスクについて厳格な定義は存在せず、カバーすべき範囲も統一されているわけではない。しかし、これまでの経験から筆者なりに考えると、

①戦争やテロ、暴動や抗議デモなど現地に滞在する駐在員や出張者(その帯同家族を含む)の仕事や生活に悪影響を及ぼす恐れのあるリスク

②輸出入の制限や停止、関税強化など進出先での経営状況を含め、会社全体の利益に悪影響及ぼす恐れのあるリスク

と定義できる。

どちらかと言うと、①は会社内でも海外へ派遣される若い世代がより懸念を持つリスクで、②は部長や役員、社長など経営層がより懸念を抱くリスクといえる。しかし、企業には従業員に対する安全配慮義務があることから、②ばかりが重視され、①が軽視されるようなことはあってはならない。両リスクへの対処は補完関係にあるべきものである。
 

経営リスクの中での政治リスクの立ち位置

当然だが、海外展開することにはさまざまな経営リスクが伴う。その経営リスクは、現地の労働・雇用リスク、生活・文化リスク、法務リスク、情報システムリスク、経済リスク、感染症・医療リスク、自然災害リスクなど多岐に渡り、各企業によって、また進出先によっても大きく多く異なるだろう。政治リスクもその1つであり、上述のリスクと並行して海外展開を計画する際に十分に考慮されるべきリスクである。

しかし、企業が海外展開する際、政治リスクの優先順位は決して高くなく、後回し作業に置かれることも少なくない。例えば、PwCが2019年7月に公表したアンケート結果によると、日系企業の8割が地政学リスクを重視する姿勢を示しているが、そのうちの4割が対応できていないと回答している。

もちろんこのアンケート結果が全てではないが、筆者もこれまで多くの企業危機管理担当者と接してきて同じように感じる。

政治リスクへの対応は、それによって何か大きな利益が生み出されるものではない。進出する際に危機管理として必要な、コストのイメージがどうしても拭えない。企業関係者が政治リスクの重要性は知っていても、経営コストを総合的に勘案した際にその優先順位が低くなることは多々ある。
 

政治リスクの特異性

政治リスクの特異性

しかし、政治リスクにはそれ固有の特異性が存在する。それは簡単に言えば、瞬時もしくは短いスパンの中でリスクが一気に爆発し、経済活動の根底にある国家の安定や社会基盤そのものを不安定化、最悪の場合は破壊する危険性である。

例えば、2021年2月のミャンマーでのクーデターはその例である。それまでミャンマーは魅力的な経済フロンティアとして各国企業の魅力を集め、進出する日系企業も数も近年増加し、ANAの直行便も運航している。

だが、国軍によるクーデターという一瞬の出来事をきっかけに実態は一変し、国軍による市民の殺害が相次ぎ、少数民族は隣国タイへ越境する難民となりつつある。

市民生活でも公共交通機関が麻痺するだけでなく、生活必需品の品薄や価格高騰、ネットの遮断などが相次ぎ、安心して経済活動を送れる状況ではなくなっている。既に駐在員の帰国や周辺国への退避も進み、今後はミャンマーから撤退する動きがいっそう加速化する可能性がある。

また、ミャンマーほどの混乱ではないが、2019年4月のスリランカでの大規模なテロでは、一時的に国際空港の離発着が制限され、当局によってネット回線の遮断がされ、夜間外出禁止を含む非常事態宣言が発令された。また、テロ事件がイスラム過激派の関係者ということで、スリランカではその後多数派の仏教徒と少数派イスラム教徒との間で宗教対立も加熱し、イスラム教徒の男性が仏教徒の過激派から殺害される事件も発生し、テロによる治安の悪化が大きな問題となった。

一方、政治リスクの特異性が表面化すれば、医療や雇用、法務や生活文化などのリスクも一気に悪化する可能性もある。もちろん、各リスクは相互作用するもので同時並行に扱っていくべきものだが、短いスパンの間でリスクが肥大化し、国家の安定や社会基盤が根底から脅かされるという特異性を考慮すれば、政治リスクから生じる第2波の影響も十分に想定しておく必要があろう。国家の安定が脅かされれば、病院の運営がすぐに圧迫され、法律そのものが機能しなくなることもある。

今後の国際情勢と政治リスク

今後の国際情勢と政治リスク

最後に、これは前述「②」の経営層向けのリスクの話に偏ってしまうが、今後の米中対立の行方を考えれば、日本は難しい立場にある。

筆者は、トランプ政権下の米中対立より、現在バイデン政権の米中対立の方がより深刻であると考えている。

なぜならば、トランプ政権は中国と一対一による対立であったが、バイデン政権は英国や日本など同盟国を巻き込んで多国間で中国に対抗しようとしており、それが影響を与える範囲はトランプ時代より拡大している。そのようななか、依然として日本経済の対中依存度が高い現状を考慮すれば、日本が米国と完全に足並みを揃えることは現実的に難しく、日中関係の安定も考慮する必要性に迫られる。

制裁と不買運動

制裁と不買運動

しかし、こういった米中対立という最大の政治リスクに直面すると、それによって日中間で政治的摩擦が生じ、不買運動や在中日系企業への物理的被害、輸出入の制限・停止などを今のうちから十分に想定しておくことは重要となる。

最近では、中国の新疆ウイグル自治区の人権問題を巡って、米国や英国、カナダなどは一斉に中国に制裁を発動し、H&Mやナイキなどの欧米企業は新疆ウイグル産の綿花を使用しないと発表。一方中国国内では、H&Mやナイキなどの製品を買うなとする不買運動を呼び掛ける声がネット上で広がった。

これを巡ってはメディアでユニクロが大きく取り上げられたが、日系企業にとっても対岸の火事ではない。カゴメは新疆ウイグル産のトマトペーストの原料としての使用を中止することを明らかにし、既にトマトの輸入をストップしたという。

制裁と不買運動

また、日本が欧米と足並みを揃えないということで、それが欧米に展開する日系企業の経済活動に影響を及ぼす可能性もある。

フランス国内の人権NGOなどは2021年4月9日、中国新疆ウイグル自治区での人権侵害を巡り、ユニクロのフランス法人や米国、スペインなど衣料品大手4社を強制労働や人道に対する罪を隠匿している疑いで刑事告発したと明らかにした。

現時点でそれが受理されるかは不明だが、中国問題を媒介として、日本と第三国との経済関係にも摩擦が生じる可能性もある。

テロ活動にも影響

新型コロナウイルスの猛威が今でも続くなか、今後それが各国の政治的安定やテロ組織の活動にどう影響を与えていくかも、経営的視点から重要なポイントとなる。ポストコロナの世界においては、海外進出企業にとってこのような政治リスクはより重要なファクターになるであろう。

日本企業の8割が「地政学リスク」重要視、でも4割が対応せず


和田大樹(わだだいじゅ)

OSCアドバイザー/清和大学講師。岐阜女子大学特別研究員、日本安全保障・危機管理学会 主任研究員、言論NPO地球規模課題10分野評価委員などを兼務。
専門分野は国際政治学、国際安全保障論、地政学リスクなど。日本安全保障・危機管理学会奨励賞を受賞(2014年5月)、著書に「2020年生き残りの戦略 -世界はこう動く!」(創成社 2020年1月)、「技術が変える戦争と平和」(芙蓉書房2018年9月)、「テロ、誘拐、脅迫 海外リスクの実態と対策」(同文館2015年7月)など。
プロフィールはこちら (https://researchmap.jp/daiju0415
(筆者の論考は個人的見解をまとめたもので、所属機関とは関係ありません)
Email: mrshinyuri@yahoo.co.jp

▼過去記事はこちら
東南アジアのテロ情勢と駐在員の安全・保護
コロナ禍で急速に変わるインド・太平洋地域の国家間関係
展望2021年 内向き化する世界と企業のセキュリティリスク
バイデン政権下の米中対立における日系企業への影響
ミャンマー情勢と日系企業への影響

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