村上春樹さんから経営を学ぶ⑭「世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていない」

ネットの普及もあって最近は百家争鳴、様々な議論があふれています。民主的で自由な議論は素晴らしいことですが、その裏返しとして責任を伴わない意見が多くなります。為政者・経営者にとって「最終的な痛みを負わない」誘惑に負けず、論理的・長期的判断が重要だと感じます。それでは今月の文章です。

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河合隼雄に会いに行く

河合隼雄に会いに行く

ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。

たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。 

河合隼雄氏との対談集「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」(新潮社)からの引用です。2013年、村上春樹さんは京都大学の「河合隼雄物語賞・学芸賞」創設記念において講演をし、「(隼雄さんとは)『物語』というコンセプトを共有していた。物語というのは人の一番深い場所になりますから、それを共有することは、人を深いところで結びつけることができる。そんな深い共感を持てた相手は、河合先生以外には一人もいませんでした」と述べたと報道されています。

ご子息河合俊雄氏には著書「村上春樹の『物語』」(新潮社)があります。

電気を使わずに生きる?

電気を使わずに生きる?

閑話休題。30年以上前のこと。ある家族が、原発に反対し電気料金の支払いを拒否、数か月後に電気を止められ蝋燭とランプの生活になり、家族の会話が増えてよかった・・・との報道がありました。

学生だった筆者は単純に「すごいな」と感心したのですが、のちに読んだ曽野綾子さんの「夜明けの新聞の匂い」(新潮社)には、水だって電気がなければ供給できない。この家族が通うかもしれない病院も電気が必要。アフリカなど電気がない地域で、人々がどれだけの苦労をし、時に人命も奪われてきたことを目の当りにした立場から「安易なセンチメンタリズムが社会主義の表明になる、という軽薄な風潮に困惑する」と指摘していました。

※文字数の制約で一部しか引用できないため、恣意的な印象操作にならぬよう留意していますが、出来ますれば、村上春樹さん、曽野綾子さんが本当に伝えたいことは両氏の作品をご一読いただければと思います。

自然エネルギーは理想だが…

自然エネルギーは理想だが…

原発の爆発の映像に恐怖を感じなかった人は皆無でしょうし、何より、福島の方々は筆舌尽くしがたい苦難を経験されました。

一方で、原子力が日本の生活を支えてきたことは否定しようもない事実です。スイッチを押すだけで24時間365日電気が保証されている。停電もまずない。これは驚くべきことです。

誰がどうみても、自然エネルギーが一番良い、このことに議論の余地はありません。原発はひとたび間違うと甚大な被害を与えることがはっきりしました。

核廃棄物の処理技術も人類はまだ有していない。しかしながら、電気を使いながら支払いを拒否することは「最終的な痛み」を負っていないのです。

太陽光発電は晴れの日しか発電しません。一般に「太陽電池」といいますが発電機能しか無いため、電気を貯めておくことはできません。発電量は時間毎に変わるためどうしても、送電網の周波数などが不安定になり、トラブル(停電など)が起きやすくなります。

電気を蓄えれば良いのでは?もちろん可能ですが、蓄電池はとても高価で、送電網全体を安定させるには相当のコストがかかります。

雨の日、夜間は電気を使わないという覚悟も必要になります。

ushiイメージ

少し話がそれますが、環境保全のためには穀物の消費が多く、温室効果ガス排出など環境負荷(水、穀物、温暖化等)が極めて大きい牛肉を食べなければ良いのですが、そのような主張は(国内においては)あまり聞きません。

自然エネルギーへの完全な転換を希望するならば、

  1. 電力料金の値上げを認める
  2. 公的補助を使わず自ら数百万円で太陽光発電機器と蓄電池を購入する
  3. 酷暑や厳冬に停電が起きても不平を言わない

以上の覚悟が必要であり、それが「痛みを負う」ことです。

主張には覚悟が必要

主張には覚悟が必要

繰り返しになりますが、自然エネルギーが理想であることは明らかです。しかし、そう主張するには相当の覚悟が必要なのです。

ただ、そのような困難を解決するのが技術革新であり、いつの日か妥当価格で自然エネルギー実質100%の時代が来るでしょう。
また、海外ではビル・ゲイツ氏をはじめ、環境のために牛肉を食べないと主張する人も増え、代替肉の研究、普及が進んでいます。

やめる決断と「痛み」

やめる決断と「痛み」

経営においても痛みを伴う決断は少なからずあることでしょう。

すぐに思い浮かぶのは「やめる」決断です。特に、花形事業が構造的に厳しい事業になってしまった場合です。上記と同じエネルギー関連でいえば、国内の石炭(採炭)事業はまさにそれに該当します。

エネルギー供給源として成長産業だった戦前、エネルギー供給源を石油に一位を譲った1960年代、段階的縮小の政策が決定された1991年。池島炭鉱(長崎県)を最後に実質的に日本の炭鉱が全て閉鎖された2002年。

産業収束に40年をかけたことになります。

丁寧な施策であったとみるか、判断を躊躇したとみるか。自分がその事業に携わる社員だったとしたら、どう思うかと考えます。

職種転換可能なうちに撤退を決断してもらう。もしくは、一縷の光明に期待して事業継続し、結局40年後に撤退する。

前者の場合、「まだ可能性があるのになぜ?」と経営者は強く非難されるでしょう。

しかしながら、短期的には道徳的に感じられる後者よりも、望ましい判断であるようにみえます。

他にも、国鉄の民営化への反対もすさまじいものでしたが(書籍で読むだけですが)、もし分割民営化による合理化をせず、今になってようやく「自動改札機導入で改札事務員を削減する」といわれても、途方にくれるだけです。

筆者はハイテク産業に育てられた人間として、ハイテク産業でも同じようなことがあったのではないかと感じています。

代案なき発言は簡単

以上の事例のように、代案なき発言は簡単である一方、痛みを伴う決定は勇気を必要とします。

経営は意思決定の積み重ねですから、多数の選択肢の中から最適なものを論理的・長期的に判断し、そして、その結果責任を負うのが指導者の責務と筆者は考えています。それはとても困難で、とても重い責任を伴います。だからこそ、経営者は高い地位と処遇を与えられ尊敬されるのだと、筆者は考えています。

 
▼村上春樹さんから学ぶ経営(シリーズ通してお読み下さい)
「村上春樹さんから学ぶ経営」シリーズ

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