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【回想録】 内側から見た経営コンサルティング(MC)の歴史 (前編)~業界動向、企業経営ニーズの変遷からキャリア形成等に至る実態とは
本オンライン・メディアは、従来、広く経営者やビジネスパーソンを対象としたものだが、新卒就職を目指す大学・大学院生、中途採用を検討中の若手層の読者も多いと聞いている。
今回は趣向を従来と変え、人気業種として業界本やインターネット、ビジネス誌特集などで情報が蔓延する最中、二十余年の経営コンサルティング・戦略コンサルティング知見を有する小職より、同業界に身を置いた実体験に基づき回想録風に語ってみたい。
当社(フロンティア・マネジメント)を含め、業界を志望する方々の一助となれば幸いである。3部作を想定している。
なお、あくまで個人的所感であるため、ファーム名等の固有名詞の使用は、極力避けさせていただいた。
新卒で素材系商社へ入社、“バブル崩壊”直後に中途でコンサルティングファームへ
自身が同業界を志望し実際に身を投じたのは、1990年代の中盤である。“バブル崩壊”の直後だった。
製造業を初めとした日本企業の競争力は、世界トップクラスであり続け、高度成長や高品質の証。まさしく、映画“バブルへGo!!”が現実であった世の中。
新卒としてではなく、当時としてもあまり多くはない、中途での“業転”である。
当時、私は素材系商社で鉄鋼原料(鉄源)の輸入実務に従事していた。商社を志望した理由は、大学で専攻していた英語の利用機会が多そうなこと、“ビジネス”そのものを学ぶには、“商い”を生業とする商事会社が適正ではないかと考えたことである。
都銀や損保と並び、商社は人気業種であったが学閥も存在していた。
人気業種ゆえ、競争率は高く、志望通りの部署への配属も不明瞭。私が同社を選んだのは、最初から海外部門・貿易部門への配属がある程度、確定していたことも大きい。
あとは、(これも当時はやっていたのだが、)欧米ビジネススクール(経営大学院)への企業派遣制度があるかどうか。MBA(Master of Business Administration、経営学修士号)という学位名も知っており、GMATという試験が別途課されることも知っていた。
ゆくゆくは海外留学を考えていたことは相違ない(留学の話は、別稿で語ることとしたい)。
新卒就職人気企業にランクインしておらず、中途採用がほとんど
(経営)コンサルティングファームは、新卒就職人気企業には全くランクインしていなかった。
中途採用がほとんどの世界。転職自体も一般的ではなく、MBA保有や経営企画部出身が大前提。外資系戦略ファームや同会計事務所(監査法人)系もそれほど有名ではなかった。
大学サークルの先輩が、外資会計事務所系へ新卒入社を果たし、話題となったことだけは覚えている。
商社での業務は、取り扱う商品により、業態や商慣習も全く異なっている。従い、入社後、他部門への異動は少なく、その“畑”や“道”でプロになることが求められる。
また、フロント部門において、営業機能は当然のこと、契約締結、売上計上・資金回収等、事業管理機能までが委ねられ一気通貫型業務機能となっていることが特徴である。
売上や収益数値に関する管理も多かったことは確か。財務会計の基礎となる初級簿記は入社前に自己学習(研修)で習得しなければならなかったこともある。
資源ビジネスの業態にも依存するのだが、海外サプライヤーとの価格交渉は毎年行われるものの、契約期間は5年から10年の長期が多く、日々の業務は“デリバリー”と呼ばれる、海外鉱山での生産・出荷・船積(ふなづみ)、日本への到着予定日(ETA)などをウォッチし続けることが主となっていた。
“飛び込み”を含めた一般的な“営業”業務とはまったく異なっていた。以下のような業界動向について、海外業界紙記事を要約し、“需要家”と呼ばれるユーザー(顧客)企業への情報提供が重要任務であった。
対面打ち合わせ・固定電話・ファクシミリでコミュニケーション
いつでも自由にインターネットから世界の情報を取得できる現代とは異なり、情報価値が優位の時代。業務コミュニケーションツールの主体は、対面での打ち合わせ、固定電話、ファクシミリ(ファックス)、テレックスであった。
当時、鉄鋼原料出荷国である北米やオーストラリアでは労使紛争が激化。ストライキや石油メジャーによる同資源権益確保を目的としたM&A参入も多発。
さながら、「米国労使紛争の争点・新条項の要諦」という経営学部卒業論文が書けそうな調査・分析を行い、「国内商社の中で最も詳しい」、と顧客企業担当者に言わせしめた。
1990年代初頭において、今では珍しくない敵対的買収対抗策としての、ホワイトナイト、ポイズンピル、ゴールデンパラシュートといったM&A用語も知ることとなる。
海外サプライヤー企業のアニュアルレポートを元に業績を分析し、事業運営や鉱山操業への影響いかんを総括。資源利用による二酸化炭素排出や酸性雨対策など、環境問題調査といった稀有な経験もした。
人生を変えた中途採用募集の小さな記事
今思えば、多数の英語文献を読破し簡潔にまとめ上げる分析・資料作成能力が、コンサルティングファーム入社時の職務経歴書作成や自己アピール、業務自体に大いに役立っていたのではないか、と思う。
数度行われた採用面接は“ケースインタビュー”そのものであった。ある状況を与えられ、「三浦君だったらどうする?どう考える?それは何故?今の企業で自分の立ち位置だったら、どう対処する?」といった質問を立て続けにされ、思うがまま答えていったことが、思い起こされる。
今では、戦略コンサルティングファームに強い人材紹介エージェントが存在し、対策を伝授する。書店にはフェルミ推定やケースインタビュー対策本があり、ネットやリアルでも同対策に向けたトレーニングを提供している。当時、そんなものは無論、ない。
そもそも、この採用への応募は、商社現業にも慣れ、仕事への動機付けが下がり、自分のキャリアを今後どうするか悩んでいたことがきっかけだった。
日本経済新聞日曜版に掲載されていた会計事務所系(現在では、総合系)経営コンサルティングファームの、中途採用募集の非常に小さな記事をたまたま見つけたこと。この応募や採用がなければ、現在の自分、コンサルティング人生もない。人生って意外とそんなものなのかも、と思えてしまう。
会計事務所系(現、総合系)コンサルティングファームが主流の時代
金融機関や財閥系の総合研究所(総研)のコンサルティング部門(恐らくは、情報システム開発からの派生)、中小企業規模向け国内独立系という競合環境の中で、会計事務所(監査法人)系が存在感を示し主流であった。
当初、ビッグ8と呼ばれるグローバル会計事務所・コンサルティングファーム(または部門)が存在。再編され、ビッグ5(分離独立した母体を含む、今のビッグ4の前身)となっていた。
上記の背景には、会計監査の大手顧客企業へ、異なる収益源の確保を模索し、MAS(Management Advisory Service)なる新たなサービス展開を図っていたことがあるのではないかと推察される。
専門用語としては監査業務の一部であるようだが、Managementとあるものの、経営という視点よりは財務や会計という業績関連数値を軸としたコンサルティングサービスが多かった印象もある。
日本では“バブル”が弾けたものの、業務の効率化やコスト削減がそれほど進んでおらず、円高不況で輸出業を中心に業績も停滞感が出始めた頃だったためだろうか。
「リエンジニアリング革命: 企業を根本から変える業務革新」(原題“Reengineering the Corporation: A Manifesto for Business Revolution”、マイケル・ハマー、ジェイムズ・チャンピー著、1993年)や、業務を抜本的・ゼロベースで見直すというBPR(Business Process Reengineering)が話題となる。
コンサルティングサービスとしても、管理会計の一種である行動基準原価計算(ABC: Activity Based Costing)や行動基準管理(ABM: Activity Based Management)を活用したものが増加していた。
私が、最初に参画させていただいたプロジェクト案件もBPRや業務改革をうたったものであり、まさしくABMを用いた業務の定量的調査から、改革の方向性を導き出すものであったし、続く案件も、定性的な業務調査やディスカッションを元に、企業の経営課題を7Sに似た切り口から総括するというものであった。
今では、BPRというと、DX(デジタルトランスフォーメーション)やローコード・ノーコードツール、一時代前では、SAPやORACLEといった統合パッケージソフトウェア導入を想起するかもしれないが、当時はそういったパッケージソフトも日本に未導入であり、システムはメインフレーム主体。BPRは(システムよりも)業務側面からの改革手法という特性が強かった。ということもあり、長年のコンサル経験において、IT系・システム系で言う、構想、業務要件定義という、フェーズ経験は全くしていない。
商社時代の自発的な改善内容が自己アピールの一つに
業務改革で個人的に思い出すのは、商社時代に自発的に実施した内容。職務経歴書でも強調した自己アピールの一つである。
電卓で計算した結果を手書きで転記、またはタイプライターで書類を作成することも多かったこの時代。計算ミスや転記ミスも多く発生。今では当然のように存在する業務マニュアルも見当たらなかった。
業務フローを描写することは思いつかなかったが、テキストで手順をまとめ、帳票類例も添付した。その中核となったのが、今で言うエクセル・スプレッドシートの関数を用いたツール開発、計算ミスのゼロ化(自動計算や指定値での判断による結果導引)である。
簡単な四則演算やIFなどの関数機能しか存在しなかったが、業務処理で使うオフィスコンピューターへ、バックグラウンド機能としてビルトインされていたものを見つけ出し、独学で活用した。WindowsのPCが導入されて以降、エクセルへも移管した。時間計算のため、10進法ではなく、60進法・24進法を表現するのが、難しかった。
転職の理由を、4回程度の採用面接でどう説明したかは、はっきりとは覚えていない。
回顧してみると、上記の自発的な改善(水準的には改革ではなく、QC)を行い、結果、周囲から喜ばれたこと、他部署でも採用されたこと(他者へ貢献できたこと)、同成功体験により「専門的にやってみたい」というキャリア上の目標や意欲が芽生えたこと、を説明したのではないかと思われる。
様々な“カルチャー”“業務”ショック
縁のようなものがあり、コンサル業界に身を置くことになったのだが・・・。
頭の使い方や仕事のスピード感、情報取得の困難さ、新たなコミュニケーションツールの使用など、様々な“カルチャー”“業務”ショックを受けることとなる。
当時、やっとインターネットが日本にも普及し出し、アマゾンもネット書店として日本に上陸した直後。
EDINETもなく、企業がホームページを作っていることもまれであった。有価証券報告書は政府系の書店でしか入手できない有り様。業界研究本も少ない。似たような風貌で、今はなき“八重洲ブックセンター”で経営書や専門書をあさる “アソシエイト”クラスの“コンサルタント”徘徊の光景もよく目にしていた。
PCの本格的利用はコンサルティングファームへ入社してから。
最初は、アップルコンピューターのノート型Macであった。ドロー機能が優れていたためと考えられる。一般企業ではノートPC導入はまだ珍しい頃であり、ちまたでは、某メーカー製のワープロ=ワードプロセッサーが一世風靡(ふうび)され、1台10万円もした時代。
かつての外資ファーム日本法人初代社長ら大御所先生の時代には、手書きで報告書やグラフを作成していたらしいため、大きな進化ではある。
その後、Windows PCにとって代わられるのだが、今のオフィスアプリケーションと比べると機能は非常に貧相であった。
パワーポイントに図形のコネクター機能はなく、別途、Visio(ビジオ)というソフトを使わなければならなかった。業務フローも、入社後初めて描くこととなり、慣れないパワーポイントで徹夜するほど時間をかけていたことなども、良い思い出ではある。
私が所属していた同ファームは新卒採用も実施してはいたが、中途採用がほとんどであった。周りを見渡すと、海外MBAを取得し他業種から転職した者、系列の監査法人から移籍した公認会計士などばかり。
自分のような商社出身で、資格未保有の者など誰もいない。出身大学がたまたま同じ“同期”も、米国トップスクールのMBA保有、外資系勤務経験のある帰国子女、と自分とは全くバックグラウンドが異なる人種。
国内老舗ビジネススクールや海外トップスクールのMBA保有者が事の他多かったことと、日本を代表する難関国立大・私立大出身者が多かった印象がある。「やはり、海外MBAは必要か」と思うようにもなっていた。
インターネット台頭、eビジネスコンサルティング
国内コンサルティングサービスの大きな変革点は、2000年前後に訪れる。同時期、私は休職し海外留学をしており、日本にはいないのだが。そのためか、海外における動向から、国内コンサルティング業界の行く末や同業種を客観的に俯瞰(ふかん)できたのかもしれない。
まずは、インターネットの台頭。
爆発的なPCの普及とインターネット利用が進み、コンサルティングにおいても、eビジネス(事業へウェブやインターネットを活用すること)関連の戦略・業務サービスを展開。
外資系戦略ファームも、今で言うデジタルXXX(XXXは会社名)のようなサービスで追随。専業として、米国発のSIPS(シップス、Strategic Internet Professional Service)というカテゴリーも生まれたが、通信速度・容量が低水準であったことや、すぐに訪れるITバブル崩壊によって、また、ネットストア展開などB2Cや消費財の一部業種を除き、企業経営の根幹には影響を与えることなく、全体的にeビジネスサービスは衰退していく。
これまた海外発の、EVA(経済的付加価値)理論を売りとする新興コンサルティングファームも日本に進出していたが、はやることはなかった。
後、基幹システムの統合パッケージソフト(とは言え、“かゆい所まで手が届く”緻密(ちみつ)な情報システムを好み、カスタマイズが6~7割を占める)への刷新が潮流となり、ビジネスコンサルティングやITコンサルティングが台頭していくこととなる。
海外では“コンサルティング”というと、米国で生まれた経営コンサルティング(MC:Management Consulting)や戦略コンサルティング(Strategy Consulting)を指すことが多い。
散見される“ビジネスコンサルティング”という用語は海外に存在せず、国内特有の言い回しのようである。業務コンサルティングに近いのだろうか。Businessには、事業という意味の他、複数形で用いると企業という意味もある。企業向けコンサルティングという意味もあるのだろうか。他にも、FAS(Financial Advisory Service)という法人体やサービス名も、日本特有である印象を受ける。海外では、Big4におけるAdvisoryという一部門に過ぎない。
「経営コンサルティングには独立性が必要」と痛感
もう一つの大きな動きは、米国エンロン事件(会計不正問題)に端を発する、会計監査とコンサルティングの分離、独立性問題である。留学から帰国したばかりの私は、この動きに巻き込まれることとなる。
この頃の企業経営ニーズとしては、ホームページ開設による視覚的な訴求を目指してか、掲載する企業理念の焼き直しのためか、または、企業ブランド(ロゴ)の再設計など、本来の経営理念や使命を再考したり、“ミッション・ビジョン・バリュー”の再定義を行ったりすること(近年はやった “パーパス経営”に近いか)が、一つの潮流であった。
私も、民営化を目指していた某鉄道会社へ同理念を説明し、熱心に傾聴していただいた覚えがある。
さて、業界再編の動きとしては、老舗かつ外資会計事務所系首位のファームが、母体と係争中であった訴訟(コンサルティング部門の分離独立及び方法論等の資産継承)に勝訴、社名も社員公募により変更し、株式公開を果たす、ことになったのも大きな動きである。
大きな動きには追随せず、資本関係を伴わずパートナーシップ提携により、グローバルブランドのみを利用するファームも存在した。
国内監査法人との緩い関係を維持しつつ、今日に至っては陣容拡大により急拡大を果たしたファームである。実は、このグローバルブランドを主に使用していたファームは別に存在した。
ところが、提携関係を中断、同パートナーシップから離脱、日本・アジア発のグローバルファームとして社名も改め再スタートを切った。別の系列ファームがブランドを継承し使用することとなった。
再編・統合や身売りなど混迷の時代へ
会計事務所によるコンサルティング部門売却の動きも、出始める。私が所属していたファームは、株式公開(IPO)を画策する一方、奇妙な社名への変更を社内公表、不評を呼ぶも、結局、グローバルIT企業の傘下へ入ることとなる(一度は米国の大手PCメーカーの傘下に入ろうとしたが、交渉決裂)。
現在、同名のファームが存在するが、実は前身(会計事務所のブランドは同一)が異なるのだ。当時、このIT企業が競合となる国内企業において、私は、あるプロジェクトへ“チェンジマネジメント”(変革移行管理)のマネージャーとして参画していた。
買収公表後、顧客のプロジェクトオーナーより、「競合からコンサルティングサービスを受ける訳にはいかない」と、いきなり詰問され、回答に窮したことがある。「こうなると、仕事にならない、やりにくい」、こうした意味でも、「経営コンサルティングには独立性が必要なのだ」と、痛感したのだった。
世界的な、コンサルティングサービス独立性の問題により、国内市場で売上拡大ができず(恐らくは、監査法人顧客への売上が大半を占めていたせいか)、再編・統合を行ったり、システム開発会社へ身売りを行ったりするファームも現れた。
考えてみると、現在のビッグ4は、再編・統合(買収)、または、グローバルブランド利用を途中から再開したファームとなっている。プロフェッショナルファーム(PSF)には、企業ブランドも非常に重要なのだろう。
こうして、会計事務所系ファームは混迷の時代を迎えていく。この時期辺りから、カテゴリー名も“総合系”という呼称へ変化していく。
日本経済の停滞・低迷、いわゆる「失われた〇〇年」の始まりと共に、企業経営ニーズ、並びに経営コンサルティングサービスは、怒濤の変遷期となっていくのだ。
(中編へ続く)
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【回想録】 内側から見た経営コンサルティング(MC)の歴史 (中編)~コンサルティングの認知拡大、そして突然の「組織解体」
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