東南アジアのテロ情勢と駐在員の安全・保護

貿易戦争でただでさえ悪化していた米中関係が、新型コロナウイルスのパンデミックにより、さらにこじれている。両大国の勢力圏争いの主戦場になっている東南アジアでは、ASEANの一体性が失われ、安定が脅かされる可能性もある。この記事では、イスラム過激派の動きや民族紛争など、地政学上のリスクはどのように変化していくのかを取り上げ、企業の危機管理体制の向上を求めたい。(和田大樹 OSCアドバイザー/清和大学講師)

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覇権争いに巻き込まれるASEAN

対立イメージ

新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界経済は1929年以降の世界恐慌レベルのダメージを受けたとも言われる。
それは国際政治・安全保障の領域にも大きな変化をもたらしている。特に、コロナの発生源国とされる中国と、最大被害国となった米国の対立はこれまでなく激しくなった。
最近では中国、印度の国境をめぐる衝突や、香港の国家安全維持法などを巡り、インドとオーストラリアは米国に接近。インド洋~太平洋地域では「中国vs日米豪印」の安全保障上の構図が鮮明になっている。

「中国寄り」と、「中国警戒」国の違いとは

地図イメージ

ASEANは、その覇権争いの舞台となっている。
ASEANは本来、政治的に地域的な一体性を造り出すことが大きな目的だ。しかし、米中対立はASEAN内部に侵入し、ASEAN諸国が一体となって行動するのを阻害する恐れもある。ASEANの内部分裂だって過言ではないのかも知れない。

現在、ラオスやカンボジア、ミャンマーは「中国寄り」で、ベトナムやフィリピン、インドネシア、マレーシアは「中国警戒」の立場にある。

この違いは一言で言えば、南沙諸島など南シナ海の領有権を巡って中国と対立しているかどうかである。

南シナ海は石油などの資源を運ぶ船が通過する、日本の経済にとって最も重要なシーレーンの一つだ。
同海域の緊張は今後より深刻な問題になる可能性がある。中国は南シナ海や東シナ海だけでなく、西太平洋へ進出する揺るがない海洋戦略があり、米国もそれを抑止する堅い意思がある。そして、危機を回避するための両国間の協力は見られず、いつか偶発的な衝突が発生し、周辺海域の政治的緊張が一気に高まる可能性もある。そうなってくると、民間商船などの安全な航行にも影響が出てくる。

テロの危険性について

タンカーイメージ

一方、東南アジアに進出する企業にとって、より身近となるリスクにテロがある。幸いにも、近年、東南アジア諸国ではクーデターや暴動、反政府デモ、もしくは公共交通機関の麻痺やインターネット回線の遮断、国際空港の閉鎖やロックダウンなどをもたらすような大規模なテロ事件は発生していない。

多くの邦人が生活するバンコクやクアラルンプール、シンガポールやジャカルタ、マニラなどで大規模なテロが発生する可能性は実際高くはなく、新型コロナが落ち着いた後にそういった大都市に渡航することに問題はない。だが、フィリピン南部やタイ南部など、もともとイスラム過激派が活動するような場所では、現在も治安当局などを狙ったテロが頻繁に続いている。
そういったイスラム過激派は、各国の首都でテロを実行する意思を排除はしていない。

また、21世紀以降では、イスラム国(IS)やアルカイダなどグローバルなイスラム過激派の過激思想に感化した個人(もしくは小集団)によるテロが大きな問題となっている。
いわゆるスリーパーセル(一般市民を装った工作員、SNSなどで過激思想に染まり、自ら過激化したテロリスト)が大都市の中から芽生えるリスクも浮上している。本稿では、こういったイスラム過激派が活発に活動しているインドネシア、フィリピン、タイに絞ってそれぞれのテロ情勢について簡単にみていきたい。
 

インドネシア 潜在的なテロの脅威が残る

インドネシアでは、2016年1月にジャカルタでIS関連の襲撃テロがあり、ISを支持する地元のイスラム過激派「ジェマー・アンシャルット・ダウラ(JAD)」や「東インドネシアのムジャヒディン(MIT)」による警察署やキリスト教会などを狙ったテロ事件が今でも続いている。
JADやMITへの対テロ特殊部隊による摘発作戦も日常的に行われている。
しかし、MITの活動はスラウェシ島にほぼ限られ、2016年1月以降、邦人が多く滞在するジャカルタやバリ島でJADやMITによる大規模なテロが発生していない。

一方、アルカイダとの繋がりがあるイスラム過激派「ジェマーイスラミア(JI)」は、202人が犠牲となったバリ島・ディスコ爆破テロ(2002年10月、日本人2人も亡くなった)、ジャカルタ・オーストラリア大使館爆破テロ(2004年9月)やジャカルタ・マリオットホテル爆破テロ(2009年7月)など、過去に欧米権益を狙ったテロを繰り返してきたが、インドネシア当局の摘発や幹部殺害が功を奏し、組織として弱体化した。

しかし、近年、一部のインテリジェンス専門家からは、JIがインドネシア全土で再びネットワークを拡大しているとの情報もあり、インドネシアには潜在的なテロの脅威が依然としてあるといえる。
 

フィリピン 南部を中心に活発に活動するイスラム過激派

マニライメージ

次に、フィリピンであるが、南部スルー諸島のホロ島では2020年8月24日、連続して2回の自爆があり、少なくともフィリピン軍の兵士5人が死亡、17人が負傷した。
事件後、「ISの東アジア州(East Asia Province)」を名乗る組織がインターネットのIS系サイトで犯行声明を出したが、ISを支持する地元のイスラム過激派が実行した可能性が高い。
フィリピン警察は予防措置として、マニラ首都圏での対テロ警備を強化した。南部のミンダナオ島ではアブサヤフ(ASG)やバンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF)、アンサール・ヒラーファ・フィリピン(AKP)、マウテ・グループ(Maute Group)などISを支持する武装勢力が活動しているが、活動地域はミンダナオ島以南に限られる。
しかし、近年では、日本人にも人気なセブ島の横にあるボホール島でこういったイスラム過激派と地元警察との戦闘が発生。在マニラ米国大使館がパラワン島でイスラム過激派が外国人を狙った誘拐やテロを計画していると注意喚起を発信したことがある。
そして、8月24日の事件後にマニラでも警備が強化されたように、南部のイスラム過激派はマニラにネットワークを拡げ、テロを実行する考えを排除していない。過去には、マニラでもIS関連の摘発事案が報告されている。

タイ バンコクでイスラム過激派がテロを実行する可能性も

モノレールイメージ

最後に、7万人以上の邦人が住むタイでは、最南部のパッタニー県、ヤラー県、ナラーティワート県を中心に、少数派のイスラム教徒の過激派によるテロ事件が今でも頻繁に発生している。
日本人の多くが住む首都バンコクも、決して対岸の火事ではない。2019年11月、米国ジョージタウン大学の学術論文誌では、このイスラム過激派は分離独立勢力で、アルカイダやISなどグローバルなイスラム過激派とは一線を画していると指摘。しかし、今後もタイ政府による強硬な姿勢が続くのであれば、一部のメンバーがISなどとの思想的なつながりを深め、最南部以外(バンコクも含む)でテロを実行する可能性もあると警鐘を鳴らした。

一方、バンコクでは2015年8月17日、中心部にあるエラワン廟で大規模な爆弾テロ事件が発生し、20人が死亡、100人以上が負傷し、日本人1人も重傷を負った。
周辺にはグランドハイアットやインターコンチネンタルなどの高級ホテルが立ち並び、※BTSスクンビット線とBTSシーロム線が上を通っており、正にバンコクの繁華街にある。※BTS(Bangkok Mass Transit System Public Company Limited、バンコク・スカイトレイン)
このテロ事件は南部のイスラム過激派の犯行ではないとされるが、政府庁舎や軍・警察施設、またアルカイダなどを支持するのであれば米国大使館やイスラエル大使館、その他の欧米大使館などが標的となる危険性もある。
タイでは現在、王制の改革を求める学生らを含み大規模な反政府集会が日々開催されているが、タイ政府が市民や反政府勢力への締め付けを強化すればするほど、イスラム過激派などによるテロが発生するリスクが高まる。

危機管理の対策について

ここで全てを列挙することはできないが、一般的な対策には以下のようなものがある。

  • 外務当局からの情報 外務省や現地の大使館・領事館がテロや治安に関する情報を発信しているのでそういった情報を常時入手し、危機管理部や現地の駐在員に速やかに伝える。外務当局からの情報 外務省や現地の大使館・領事館がテロや治安に関する情報を発信しているのでそういった情報を常時入手し、危機管理部や現地の駐在員に速やかに伝える。
  • 現地メディアの情報 外務省の情報も全てを網羅しているわけではない。また、日本のメディアではテロが報道されるのは発生した後であり、テロ組織の前兆などの動きについては入手しにくい。しかし、現地メディアや情報機関からは重要なテロの「前触れ」が発信される場合もあり、そういった情報収集にも努める。
  • 社員の危機管理能力向上 冒頭にも述べたように、海外に出る企業には駐在員(その家族)や出張者の安全・保護を徹底する義務がある。よって、赴任する前にて、外務省やJICA、また日本にある危機管理コンサルティング企業などが実施する海外危機管理セミナーなどに参加させ、社員の危機管理能力向上に努める。

駐在員の安全の徹底を

簡単ではあるが、以上の3カ国にテロ情勢についてみてきた。海外に展開する企業であれば、外国に送る駐在員の命と安全は最重要項目として徹底しなければならない。2013年1月アルジェリア・イナメナス人質テロ、2015年3月チュニジア・バルドー博物館襲撃テロ、2016年7月バングラデシュ・ダッカ人質テロ、2019年4月スリランカ同時多発テロなど邦人がテロの犠牲となる事件が絶えない。

冒頭でも言及したように、現在東南アジア諸国で差し迫ったテロの脅威があるわけではないが、潜在的な脅威は存在する。東南アジアが日本経済にとって魅力的な市場であることは変わらないだろうが、今一度危機管理体制を見直し、それを徹底して頂きたい。


和田大樹(わだだいじゅ)

OSCアドバイザー/清和大学講師。岐阜女子大学特別研究員、日本安全保障・危機管理学会 主任研究員、言論NPO地球規模課題10分野評価委員などを兼務。
専門分野は国際政治学、国際安全保障論、地政学リスクなど。日本安全保障・危機管理学会奨励賞を受賞(2014年5月)、著書に「2020年生き残りの戦略 -世界はこう動く!」(創成社 2020年1月)、「技術が変える戦争と平和」(芙蓉書房2018年9月)、「テロ、誘拐、脅迫 海外リスクの実態と対策」(同文館2015年7月)など。
プロフィールはこちら (https://researchmap.jp/daiju0415
(筆者の論考は個人的見解をまとめたもので、所属機関とは関係ありません)
Email: mrshinyuri@yahoo.co.jp

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