読了目安:12分
歴史を動かした人物①~幕末のキーマン/老中首座・阿部正弘。卓越した「調整型リーダー」が残した功績~
1853年のペリー来航後、江戸幕府が守ってきた鎖国政策は、日米和親条約の締結によって終焉した。その間の日本政治をとり仕切っていたのが、当時30代だったエリート政治家の老中首座・阿部正弘(1819-1857)である。明治維新に向けた激動の日本の変革期の中で、民主主義につながる衆議を重んじた稀有な政治家だ。今回は阿部正弘の政治手法と、阿部正弘からの学びについてご紹介したい。
阿部正弘とは何者か
義務教育課程において日本の「明治維新」前後の歴史(図表1参照)を学習する際、多くの時間を割かないが、「明治維新」前後は多くの出来事(事件・騒動・政治的意思決定・自然災害等)と多くの人物が登場する。
明治維新前後に活躍した著名な人物をテーマにした歴史小説やテレビドラマが多く存在するが、そうした著名な人物はわずかであり、明治維新のような大きな事象には他にも大きな功績を遺した人物が多数存在している。そして、そのような人物から学ぶことは多い。
今回はそのなかでも江戸幕府末期で老中首座を務めた阿部正弘(以下、「正弘」という。)に焦点を当てる。
正弘は、どちらかというと江戸幕府を崩壊に導いた優柔不断な人物として歴史上登場することが多い。ただ、実際の功績としては、日本開国の歴史を開くとともに、その後の江戸幕府の政治から明治維新後の民主政治への流れを作った若き改革派の政治家として評価できる人物である。
私は歴史の専門家ではないので、いくつかの正弘に関する書物を参照した個人的な認識を記したものが本記事であると捉えていただきたい。
27歳で老中首座。阿部正弘が異例の出世を遂げた理由
正弘は1819年、備後福山藩主・阿部正精の五男として生まれた。1836年には死去した兄の跡を継ぎ、わずか18才で10万石の第7代藩主に就任した。
福山藩阿部家は、徳川家康に仕えた阿部正勝を祖とする譜代の家系であり、代々、藩主が幕府の要職(老中など)を務めてきた。
正弘は、若い頃から学問に熱心な優秀な人物であり、1838年にわずか20歳の若さで奏者番(江戸城中の儀礼を司る役職)に任じられると、1840年には最年少の22歳で幕府の寺社奉行(寺社の領地や僧侶・神官を司る役職)に指名された。
奏者番の役職は、老中になるための出世コースとして位置づけられる役職であり、当時の奏者番就任の平均年齢が36歳であったことからすると、22歳で就任した正弘がいかに若い頃からエリート街道をまっしぐらに進んでいたかがわかるだろう。
正弘が寺社奉行時代に「中山法華経寺事件」という事件があった。
この事件は、長期政権であった第11代将軍徳川家斉時代に起きていたもので、「大奥と僧侶の不純な交友関係が、将軍家斉の死後に露見した」のである。
正弘は寺社奉行としてこの事件の処理を任せられた。正弘は交友関係の現場だった感応寺を廃寺としたうえで、大奥の処分を限定的にしたまま、僧侶の日啓や日尚らの処断を進めた。
この判断は、「将軍家斉の名誉」と「今後の再発防止の必要性」という複雑に絡み合った課題について、双方の利害を調整しながら解決をしていくという見事な政治手法だと高く評価された。この対応がきっかけとなり、正弘は第12代将軍徳川家慶から目をかけられるようになったことで、1843年わずか25歳で老中に任じられたのだった。
さらにその2年後の1845年には、現在の内閣総理大臣にあたる役職である「老中首座」にわずか27歳で就任した。「天保の改革」の指導者・水野忠邦が老中首座に就いたのが45歳、井伊直弼が大老の地位に就いたのが43歳だったことを考えると、27歳の正弘の老中首座就任が異例中の異例であったことがわかる。
阿部正弘がペリー来航(1853年)に対してとった行動とは
米国がメキシコとの米墨戦争(1846-1848)に勝利し、太平洋に面した西海岸のカリフィルニアを領土としたことで、太平洋にあるハワイ王国と日本に焦点を当てるようになった。
その結果、米国は太平洋地域の通商権確保をめざし、米墨戦争のべラクルス港攻略作戦で活躍した海軍のペリー提督を日本に派遣した。
これが「黒船来航」の背景であり、アメリカ東インド艦隊司令長官であったペリーが1853年に軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。そしてペリーは米国フィルモア大統領の国書を提出して江戸幕府に対して開国を求めたのだ。
正弘はペリー来航後、ペリー来日と、和訳したアメリカ大統領国書の内容を朝廷に報告するとともに、諸大名や諸藩士、一般庶民にも回覧の上で意見を求めた。
この進め方は、それまで秘密主義であった幕府の先例とは異なり、日本が迎えた重大な局面において衆議を諮る手法であり、その後の民主主義を彷彿させるものだった。
一方、こうした朝廷と諸大名を巻き込んだ政治手法は、朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。つまり、その後の大政奉還と明治維新の流れを作ったことにもなる。
当時の日本は、幕府が大型船の建造を禁止していたため、軍艦を保有していなかったことから、米国と戦争になった場合、勝ち目がないことが明らかだった。
鎖国政策をとっているのだから米国の要求を拒否すべきだが、軍事力がないため、拒否できない。そのため、なるべく時間を引き延ばし、その間に軍事力(海軍)を強化する方向性しかないと判断した。
正弘は幕府として、朝鮮・琉球以外の国からの国書は受領しないという従来の方針を変え、国書を正式に受け取り、翌年に回答することを約束して、一旦ペリーを日本から米国へと帰国させた。
しかしペリーは翌1854年1月、今度は軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航。江戸湾の測量など軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫ってきたのだ。
正弘は、儒学者の林大学頭を交渉役に任命し、米国との交渉にあたらせた。
日本は、四方を海に囲まれて、これまで鎖国の中で自給自足の生活を営んできた国であるため、外国との貿易をする必然性はなかった。しかし、米国の漂流船が薪や食料、石炭、油の補給を求めた場合は、「仁」の心で対応する精神から、「安価な物資の販売を認めることが妥当」という精神から、下田・函館を開港すること約束。その内容が日米和親条約である。
さらに幕府はロシアのプチャーチンと日露和親条約を締結するとともに、イギリス・オランダとも類似の内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に終止符を打って開国に至ったのだった。
阿部正弘の改革がもたらした影響
正弘は、日米和親条約を締結後である1854年以降、朝廷との協調路線のもと、日本が諸外国の圧力に対抗し「国防強化」という大きな国家目標を実現するため、大胆な幕政改革を断行した。これは「安政の改革」と呼ばれる。
改革の新体制は、まず正弘が慕っていた前水戸藩主徳川斉昭を幕政に参画させた。そした福井藩松平慶永、薩摩藩島津斉彬を政治参与として、朝廷との連携、諸大名・幕臣への意見聴取をベースとした挙国一致体制を採った。
安政の改革の具体的な内容は、以下の通りである。
①講武所の開設
正弘は、軍事力の強化のため、軍事の訓練機関としての講武所を設置した。
②蕃書調所の開設
正弘は洋学の教授と洋書・外交文書の翻訳を行う専門機関として蕃書調所を設置した。この蕃書調所は、後の東京大学の前身の機関だった。
③人材の登用
正弘は若手の優秀な人材の登用にも積極的に取り組んだ。
川路聖謨を勘定奉行に、岩瀬忠震・永井尚志を目付・外国奉行等に、勝海舟を長崎海軍伝習所伝習生に、江川太郎左衛門を韮山代官に登用した。
④海防策の強化
正弘は江戸湾品川沖に御台場、大阪湾岸や函館に砲台、伊豆韮山に大砲等の製造のために反射炉を設置するとともに、長崎に洋式軍艦の操縦などを学ぶための教育機関として海軍伝習所を設置した。
また、それまで武家諸法度で禁止していた大型船の建造も解禁し、軍艦の製造にも取り組むこととした。さらに、幕府海軍の創設にも取り組むため、ペリー初来航後の2週間後、長崎奉行に命じて、オランダに対して2隻の軍艦を発注した。
即断即決という言葉は多く使われているが、幕府財政にとって重要な影響のある軍艦の発注をわずか2週間という短期で行った正弘の即断は驚異的だった。
阿部正弘が生きていたら
正弘は寛大な人物として、人の意見をよく聞き、たとえ相手が違う意見を持っていても正面から反対せずに、相手の長所や使えそうなところを判断し、採用するといった柔軟な対応力を持っていた。
正弘は1857年、老中在任のまま江戸で急死したが、もし正弘がもっと長く生きていたらどうなっていただろうか。
その後の日米修好通商条約締結における条約勅許問題(大老井伊直弼が朝廷の反対で条約勅許を得られないまま独断で通商条約に調印した問題)に正弘が直面したと仮定した場合、朝廷との緊密な関係構築をしていた正弘だったら上手く乗り切れた可能性はあるだろう。
また、将軍継嗣問題においても、正弘の生前は抑えられていたが、死後にこの問題が政争化した。その後、安政の大獄、桜田門外の変と幕府体制の混乱につながっていった面がある。
様々な利害関係の調整力において卓越していた正弘が、もし若年で亡くなることなく、その死後10年後、第15代将軍となる徳川慶喜を支える立場に就いていたら、日本の歴史は違った形になっていたかもしれない。
調整型リーダー・阿部正弘
老中時代の正弘は、開国問題に対する日本の進むべき道について、水戸藩主・徳川斉昭に充てた書簡で以下のように述べている。
「阿片(アヘン)戦争のことを考えてみてもください。もはや欧米列強のアジア侵略は始まっています」
「武力で勝利することはできません。無謀な攘夷を仕掛けて敗北すれば、かえって日本にとって恥となるでしょう」
「外国船によって日本の通商を断たれれば、食料すら欠乏しかねません」
「軍艦を作り、海防強化に取り組むのが、いま早急に為すべきことです」
「いつかは欧米列強がやって来る。そのとき攘夷は無謀極まりない」
長らく鎖国を貫いてきた日本が、「米国をはじめとした列強国の開国要求にどう対応するか」という問題は、海外の情報が乏しい当時の日本にとって、極めて難易度の高い判断だっただろう。
しかし、上記の書簡内容からは当時30代半ばの老中職にあった正弘が、いかに冷静な判断をしていたかがわかる。
このような考え方には、様々な人に対し意見を求め、それらの中からより適切な考え方を採用することが上手い正弘の真骨頂が現れているようにも思える。
企業経営においても様々なリーダーが存在し、自己の経営ビジョンに従って会社を引っ張っていく強力なリーダーも存在するが、一方で様々な人の意見を聞いて判断をしていく調整型のリーダーも存在する。
正弘は、後者のタイプのリーダーの代表格ではないだろうか。日本の重要な転換期の時代において、正弘のようなリーダーが若くして病死をしてしまったのは非常に残念というほかない。
参考文献
・「阿部正弘 挙国体制で黒船に立ち向かった老中」後藤敦史著(戎光祥出版)
・「安政維新 阿部正弘の生涯」穂高健一著(南々社)
・「明治維新の正体」鈴木壮一著(毎日ワンズ)
・「一度読んだら絶対に忘れない 日本史の教科書」山﨑圭一著(SBクリエイティブ)
コメントが送信されました。