ゼレンスキーも学んだ、チャーチル流リーダーシップと演説術㊤  

ロシアのウクライナ侵攻の中、ゼレンスキー大統領のリーダーシップと行動力は、世界に感銘を与えている。この記事では、ゼレンスキー氏が尊敬し、影響を与えた人物、英国の英雄ウィンストン・チャーチルについて述べていきたい。前半㊤では、チャーチルがいかに失敗から学び、ぶれない姿勢を身に付けたのか。厭戦ムードを一掃した、その演説の力について触れていく。

シェアする
ツイート

ゼレンスキー大統領の演説とは

ゼレンスキー大統領の演説とは

ゼレンスキー大統領は2022年3月23日に、日本の国会でオンライン形式による演説を行い、今後のウクライナへの支援とロシアに対する経済制裁の継続を要請した。

この演説は、テレビやインターネットで全国に生配信され、日本国民の心を揺さぶったことは記憶に新しい。

これまでも、ゼレンスキー氏は、英国、米国をはじめとした各国の議会で演説をし、それぞれの国に纏わるエピソードも交えつつ工夫した演説を行い、各国の人々に深い感銘を与えてきた。

その中でも、注目すべき演説は、22年3月8日に英国の下院での演説だ。

ゼレンスキー氏は、

「私たちはあきらめない、負けません。最後まで戦います。」
「われわれは、海で戦い、空で戦い、どれだけ犠牲を出そうとも、我々の領土を守ります。」
「われわれは、森の中で、野原で、海岸で、都市や村で、通りで、丘で戦い続けます。」

参考:【演説全文】ウクライナ ゼレンスキー大統領 何を語った? | NHK | ウクライナ情勢

と述べた。

これは、第二次世界大戦中の1940年6月4日に、首相になったばかりのチャーチルが、ナチス・ドイツとの対決を宣言するために英国の下院で演説した際の次の言葉を意識したものである。

「我々は気力を失うことも仕損じることもない。我々は最後までやる。」
「我々はフランスで戦う、我々は海と大洋で戦う、我々は日々自信を強め、力を強め、空で戦う。我々はいかなる犠牲を払おうとも、自らの島を守る。我々は海岸で戦う、我々は水際で戦う、我々は野原と街頭で戦う、我々は丘で戦う。」
「我々は決して降伏しない。」

チャーチルは、独裁者ヒトラーが率いるドイツが第二次世界大戦の際、欧州の各国に侵攻していく中で、同盟国のフランスが仮に降伏したとしてもナチス・ドイツと最後まで戦うことを宣言した。

その当時の英国は、ナチス・ドイツの攻勢により、現在のプーチン率いるロシアによるウクライナ侵攻よりも更に深刻な局面にあったが、チャーチルは、英国民を鼓舞して勇敢に戦い、最後は連合国の一員としての勝利に大きな貢献を果たした。

チャーチルの生い立ち

チャーチルの生い立ち

チャーチルは1874年11月30日、オックスフォード近郊のブレナム宮殿で、保守党の政治家として大蔵大臣を務めたランドルフ・チャーチルの長男として生まれる。

チャーチルの幼少期は、成績が悪かったこともあり、大学には進学せず陸軍士官学校に入学した。

1895年には、スペイン軍に帯同してキューバで初めて戦争の実戦を経験した。

軍人として、従軍記者として

その後、1900年の第二次ボーア戦争で、チャーチルは記者として従軍したものの捕虜となってしまった。

しかしながら、チャーチルは、大胆にも捕虜収容所から脱走に成功し、イギリスに帰国したため、一躍英国内で知名度を上げることになる。

加えて、チャーチルについて特筆すべきは、その文章力である。チャーチルは、1953年に「第二次世界大戦」等の書籍でノーベル文学賞を受賞しているが、自ら戦争に軍人として参加する傍ら、従軍記者としても活躍していた。

チャーチルのリアルな戦争を題材に執筆した書籍は、ベストセラーにもなっている。

政治家への転身

やがて、チャーチルは政治家に転身し、1900年の総選挙では保守党候補として初当選を果たす。

チャーチルは、軍人としての経験も後の政治家転身の1ステップと考えていたようであり、従軍記者として世間の耳目をひくような活動をしたのも、原稿料収入を得るだけでなく、政治家になるための布石として、自身の知名度向上の意味もあった。

チャーチルは、1908年に、33歳の若さで通商大臣に就任し、1911年には海軍大臣に就任する。

第一次世界大戦時の失脚(ダーダネルス海峡突破作戦の失敗)

第一次世界大戦時の失脚(ダーダネルス海峡突破作戦の失敗)

1914年7月に第一次世界大戦が開戦したが、その背景には、欧米諸国における植民地支配領域の拡大競争という政治情勢があった。

ドイツ、オーストリア、オスマン・トルコを中心とした同盟国と、イギリス、フランス、ロシア、米国等の連合国との間で激しい戦いが繰り広げられ、1918年まで大戦は継続した。

そのような中、海軍大臣として第一次世界大戦に臨んだチャーチルは、ダーダネルス海峡突破作戦の失敗により、不本意な失脚を余儀なくされる。

要衝、ダーダネルス海峡

エーゲ海から黒海に入るには、ダーダネルス海峡を通ってマルマラ海を通過、さらにイスタンブールを臨むボスポラス海峡を通過する必要がある。

その航路は、連合国側のロシアが黒海経由で戦略物資を調達するために重要な航路であった。

ダーダネルス海峡を制圧することができれば、首都イスタンブールまで艦隊を進めることができ、オスマン・トルコに大きなプレッシャーを与えることができる。同国の第一次世界大戦への本格参戦の機先を挫く効果が想定されていた。

このため、チャーチルが海軍大臣を務めるイギリスは、陸軍によるガリポリ半島上陸作戦と並行して、ダーダネルス海峡を艦船で制圧するダーダネルス海峡突破作戦を実施することとした。

しかしながら、別地での作戦に勢力を注いでいた陸軍からは十分な協力を得られず、衰退期にあったオスマン・トルコ側からは想像以上の頑強な抵抗に遭った。

イギリスは艦船による艦砲射撃だけでダーダネルス海峡を制圧することはできないまま、多くの戦死者を出し、結果的に約8か月間で同地から撤退するに至った。

失敗の教訓

ダーダネルス海峡での失敗は、その後のチャーチルの政治家人生に大きな影響を与えた。

チャーチルは、当該作戦の失敗の責任をとらされて、海軍大臣からランカスター公領大臣という閑職に追いやられた。それ以降、1939年に始まった第二次世界大戦において、チェンバレン首相のもとで海軍大臣に復帰するまで政権の中枢を担うことはなかった。

チャーチルは、ダーダネルス海峡突破作戦の成功の前提が、陸軍によるガリポリ半島上陸作戦と同時並行で戦うことが必要と考えていた。

しかし、陸軍の掌握ができずに失敗した経験から、危機時の指導者は、全ての権力を掌握しない限り、戦争には勝てないという教訓を得た。

第二次世界大戦時の首相就任

第二次世界大戦時の首相就任

1940年5月10日、チャーチルは、チェンバレン首相の退陣を受けて、英国の首相に就任したが、その前後のドラマは、映画「ウィストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」の中でも採り上げられている。

宥和政策が裏目に出たチェンバレン政権

第二次世界大戦は1939年9月に、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、これを受けてイギリスとフランスがドイツに対し宣戦布告することにより勃発した。

その大きな契機となったのが、その直前にイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳が集まって開催された「ミュンヘン会談」である。

ドイツが、チェコスロバキアに対し、住民の多くをドイツ人が占めているズデーテン地方を割譲するよう要求したのに対して、イギリスのチェンバレン首相は、ナチス・ドイツに対する宥和政策を採っていたため、当該割譲を認めた上で、ドイツ・イギリス間では戦争をしない旨の共同声明を行った。

チェンバレン首相は、融和により、早期に自国の平和を勝ち取ろうと考えたのである。

これに味を占めたナチス・ドイツは、イギリスが強硬策をとらないことを見越して、ヴェルサイユ条約により失ったダンツィヒ地域を奪回するために、ポーランドに侵入し、前述の通り第二次世界大戦が開戦したのである。

チェンバレン首相は、この際の失態により徐々に国民の信頼を喪失していった。

ナチスへの強硬姿勢貫く

これに対し、チャーチルは、かねてからチェンバレン首相が採っていたナチス・ドイツに対する宥和政策に批判的であった。

チャーチルは、ナチス・ドイツの、自由や民主主義と言った伝統的な価値観への挑戦と、欧州の覇権的地位を確保しようとする行動に対しては、武力をもって断固たる態度で臨むべきであるという考え方で一貫していたのである。

第二次世界大戦の開戦から8か月経過した1940年5月は、ポーランドの降伏を経てドイツの侵攻が進み、フランスの降伏の可能性も出ていた時期であった。

同月7日と8日に議会で行われた審議では、労働党からチェンバレン首相に対する問責決議の提案がなされ、与党からも決議案に賛成する議員が多数出たこともあり、チェンバレン首相は退陣を余儀なくされる。

その後の首相後継者は、強硬派のチャーチルと穏健派のハリファックス卿の2名だけであった。チェンバレン首相は、当初自らの考え方に近い融和派のハリファックス卿を首相にしたかったが、就任を辞退したため、やむなくチャーチルを後継首相に指名することとした。

チェンバレン首相は、英国内で第一次世界大戦後の厭戦ムードが続いていたこともあり、戦争をなるべく平和的に回避できる宥和政策を主張してきた。これに対し、チャーチルは、絶対的な独裁者で覇権主義であったナチス・ドイツに宥和政策が功を奏しないことは明らかと考え、一貫して主戦論を展開してきた。

チャーチルは、独裁者に対し安易な融和策を採ると、かえって事態が悪化することをこれまでの戦争経験で学んできており、度重なるチェンバレン首相等との討論においても、ぶれることなく自説を説いていったのである。

チャーチル、演説の力

チャーチル、演説の力

チャーチルは、首相就任後の2日間で、労働党を含めた挙国一致による連立内閣を組閣するとともに、1940年5月13日に下院議会において演説を行い、次のように述べた。

「私が差し出せるのは、血と労苦と涙と汗のみである。」
「我々の政策が何かと問われるなら、私はこう答える。戦うことである。」
「我々の目的は何かと問われるなら、私は一言でこたえられる。勝利である。」
「さあ、力を合わせてともに進もうではないか。」

チャーチルの演説の言葉は、入念な準備の下で発せられたものであり、その演説は、全議員及び英国民に対し、勇気と希望を感じさせ、感銘を与えた。

1940年5月は、フランスの降伏の可能性が高まり、イギリスがドイツに侵攻される可能性が高まっていた危機時であったが、その時の英国民が待望したのは、自国を守るために強いリーダーシップを発揮するチャーチルであった。

ダンケルクの撤退の成果

ダンケルクの撤退~バトル・オブ・ブリテン

チャーチルの首相就任後における最大の課題は、ドイツ軍がベルギーとオランダに侵略しパリへ向かって前進する中で、フランス北端の町ダンケルクに追い詰められた約30万人の軍人(約20万人がイギリス軍人、残約10万人がフランス軍人)の救出であった。

イギリスの本土決戦も予想される中で、これらの軍隊を撤退させて防御に備えることは英国にとって至上命題であったが、そのために使用できる軍艦も限られており、その撤退は極めて困難な状況であった。

しかしながら、チャーチルは、軍人救出のために民間の小型船や漁船の提供を求め、それを利用してフランスの軍人を含む約30万人の軍人の撤退に奇跡的に成功したのである。

この奇跡のダンケルクからの撤退成功は、直ちに勝利に結びつくものではなかったが、イギリス本土防衛の強化の点と、イギリス国民の戦意向上に資するものであり、チャーチルにとっては最初の重要な成果であった。

講話の交渉はしない

チャーチルの連立政権においては、自らの保守党内の支持基盤が脆弱であったこともあり、政敵であったチェンバレン首相やハリファックス卿も閣内に留めていた。

もう一つの課題が、イタリアの仲介によるドイツとの講和を同時並行で模索する否かの論争であった。講和を同時に模索するチェンバレン首相とハリファックス卿等の考え方は、講和条件が満足いく内容でなければ、そのまま戦争を継続するだけなので合理的な手法と言うこともできた。

しかしながら、チャーチルは、次の二つの理由で講和のための交渉をせずに徹底抗戦を行う方針が正しいと考えていた。

それは、
①イギリスが劣勢である状況で講和を模索した場合、国民は講和に対する期待が膨らみ、講和が困難となった後に徹底抗戦に戻る際、国民の戦意を維持することが困難であったこと
②歴史のあるイギリス帝国を構築してきたイギリス国民に対する強い信頼があったこと

であった。

後半㊦に続く

後半㊦では、危機時に必要とされるリーダー像について述べていきたい。

▼関連記事はこちら
ゼレンスキーも学んだ、チャーチル流リーダーシップと演説術㊦

コメントを送る

頂いたコメントは管理者のみ確認できます。表示はされませんのでご注意ください。

コメントが送信されました。

関連記事