危機時のリーダー徳川慶喜

危機時のリーダー徳川慶喜

徳川慶喜は、江戸幕府最後(第15代)将軍であり、外国の軍事的圧力に揺さぶられていた幕末の危機的状況の中で将軍職を務めることになった。

一般的に、危機時のリーダーに必要な資質は以下の通りである。

  1. 決断力(慎重な検討と大胆な決断)
  2. 実行力
  3. コミュニケーション力
  4. 情熱
  5. 冷静さ
  6. 忍耐力・執着力
  7. 情報収集力及び社内外のネットワーク構築力
  8. 大局観と洞察力
  9. 柔軟で創造的な発想力

この記事では、以上の項目をもとに、徳川慶喜のリーダーシップを検証したい。

大河ドラマ「青天を衝け」での徳川慶喜は?

大河ドラマ「青天を衝け」での徳川慶喜は?

▲写真説明 埼玉県深谷市、渋沢栄一の生家

60作目となるNHK大河ドラマ「青天を衝け」の放映は、全41回で2021年2月に始まり同12月26日に最終回を迎えることとなっており、現在はその折り返し地点だ。

前半では、吉沢亮演じる渋沢栄一の活躍はまだ序盤段階にあり、前半の物語の主役は草彅剛演じる徳川慶喜と言う意見も多い。

第23回放映の「篤太夫と最後の将軍」では、慶喜が政権を朝廷に返上する「大政奉還」の決意を老中他の幕府役人等に話すシーンが描かれ、大きな見せ場となった。

「………しかしながら、今日の形勢に至ったのは、私の徳の薄さがゆえんにて、恥じ入るばかりだ。ましてや外国との交際が日に日に盛んになる昨今、日本ももはや政権を一つにまとめねば、国家を治め、守ることはできぬ。それゆえ……政権を朝廷にお返しし、広く天下公平な議論を尽くして、天子様の決断を仰ぎ、同心協力してこの国を護りたい。さすれば日本は……さすれば日本は必ずや海外万国と並び立つことができよう。」

「御神君以来の大業を一朝にして廃するは、ご先霊に対して恐れ入りたる次第ながら、天下を治め、天子様の心を安んじ奉るは、すなわち御神君の偉業を引き継ぐことである。私がなしえることでこれに過ぎるものはない」

外国から武力での威嚇を伴う開国要求が相次ぐ中、日本は、政権を一本化し、諸外国と渡り合っていくために国力を増強する必要がある。そのために徳川幕府が、天皇から委託されてきた政権を返上するという慶喜の大英断が大政奉還である。

一方で、慶喜は、大政奉還後の鳥羽・伏見の戦いで敗戦した後に、大勢の幕府軍を放置して大阪から江戸に逃亡した人物でもある。その後の戊辰戦争では、大勢の人が命を失っている。

歴史を転換させた決断をしたものの、歴史的に評価が分かれるリーダーが徳川慶喜である。

徳川慶喜の生い立ち

徳川慶喜の生い立ち

▲写真説明 水戸藩の藩校弘道館

徳川慶喜は、1837(天保8)年9月に、水戸藩主徳川斉昭の七男として出生した。幼い頃から藩校の弘道館に通い、文学、弓術、剣術及び馬術等を習い、その資質は高く評価されており、斉昭は、慶喜の教育・修業に力を入れていた。

1847(弘化4)年8月に、御三卿と呼ばれていた一橋徳川家の相続の話が持ち上がったが、斉昭は、慶喜の将来を考えて、慶喜(当時11歳)に一橋家を相続させることとした。一橋家は、御三卿の中でも第11代将軍家斉(第12代将軍家慶、第13代家定に続く)を輩出している家であり、慶喜は家慶にたびたび拝謁することを許され、若い頃から将軍の後継者としても期待されるようになった。

徳川慶喜が将軍になるまでの時代背景

 
徳川慶喜が将軍になるまでの時代背景

徳川幕府は、いわゆる「鎖国政策」をとっていたため、外国との交易を長崎でのオランダ商館と中国船との貿易などに制限。日本人の海外渡航と、在外日本人の帰国が禁止されていた。

一方、アメリカは、1850年頃にメキシコとの間における米墨戦争に勝利し、カリフォルニア州を獲得した余勢を駆って、今度は日本への進出を企図するようになった。

1853(嘉永6)年、米墨戦争で活躍したペリー(アメリカ東インド艦隊司令長官)は、軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航し、日本に対し開国要請をした。当時の老中阿部正弘は、諸大名に意見を図ったものの、結果として米国等の軍事的圧力に対抗していくことは困難と判断し、1854(嘉永7)年3月に日米和親条約を締結し、下田と函館の開港をするに至った。

それから数年後の1956(安政3)年7月にアメリカ総領事のハリスが来航し、日米間の貿易を活発化させるための日米修好通商条約の締結を迫った。幕府としても、日米の軍事力の差からすると、当該条約の締結はやむを得ないと判断するも、攘夷論者であった孝明天皇の条約勅許を得ることは困難であった。このため、大老となった彦根藩主井伊直弼の判断により、1858(安政5)年6月、天皇の勅許がないまま日米修好通商条約の締結をすることとなった。

なお、当該条約では、アメリカ側に領事裁判権を認めた他、日本に関税自主権が無いなど、日本側にとって不利な内容となっていた上、神奈川、新潟、長崎、兵庫の開港と、江戸及び大阪の開市を日本側は約束している(日本は、同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結した)。

これ以降、天皇の勅許を得ていない修好通商条約は無効として、外国人を打ち払うべしとする朝廷及び長州藩を中心とした攘夷派と、外国との武力衝突を行えば、その軍事力の差は歴然としているため、日本を外国の植民地化させないためにも、開国に応じざるを得ないとする幕府及び幕府に近い諸大名を中心とした開国派に分かれていた。

攘夷派の中でも、過激に外国人を直接打ち払おうとする長州藩等の勢力と、あくまで幕府に攘夷を委任するスタンスの朝廷とは立場が異なっていた。一方、幕府の方は、実質的に開国派であったが、朝廷との関係を保つために攘夷を行う立場を形式的に維持する対応をとっており、そのような歪な関係の中で、様々な内戦(桜田門外の変、禁門の変他)が勃発した。

徳川慶喜がリーダーシップを発揮した場面①(条約勅許)

徳川慶喜がリーダーシップを発揮した場面①(条約勅許)

1865(慶応元)年9月、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が軍艦計9隻で兵庫沖に侵入して、1週間以内に条約勅許や兵庫開港を強硬に要求してきた。

これにつき、老中阿部正外は、無勅許のままの兵庫開港もやむを得ないと主張したが、その当時禁裏守衛総督の役職にあった慶喜は、勅許を得ないまま兵庫開港を行うと攘夷派を到底抑えることはできないと主張し、老中との間で論争した。これを聞いていた第14代将軍徳川家茂は、判断もつかぬまま匙を投げてしまった。

これを見かねた慶喜は、速やかに参内し朝議の開催を要求し、関白二条斉敬、右大臣徳大寺公純等5名の公卿側と、慶喜、京都守護職松平容保等3名の幕府側による小御所での簾前会議(天皇の前での会議)が開催された。慶喜は、

「勅許をいただけねば、(4カ国の)兵隊は天子様もはばからず京に入ることになりましょう」
と熱弁を振るった後、
「これほど申し上げてもお許し(勅許)がないのであれば、それがしは責をとり切腹いたす以外にございませぬ。………またそれがしも不肖ながら多少の兵をもっております。腹を切った後に、(自分の)家臣どもが、おのおの方にいかなる事をしでかすかは責めを負いかねますので、お覚悟を。」
との啖呵を切るに至った。

(19話「勘定組頭 渋沢篤太夫」より)

この慶喜の必死の説得により、孝明天皇も公卿等も「戦争になっては仕方がない。」という認識に至り、孝明天皇は、同年10月に修好通商条約に対する勅許を出した。

この際、天皇は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、慶喜は、1867(慶応2)年1月に第15代将軍になった後の1868(慶応3)年5月に、四候会議(松平春獄、山内容堂、伊達宗城、島津久光)を乗り切り、兵庫開港についても勅許を得た。

この一連の条約勅許の未取得問題は、老中・堀田正睦や大老・井伊直弼等がなしえなかった難題であったが、慶喜が、そのリーダーシップを発揮して見事に解決をしている。

徳川慶喜がリーダーシップを発揮した場面②(幕府軍の軍事力近代化)

禁門の変(8月18日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件)を契機に、朝敵となった長州藩に対し、朝廷は二度の長州藩征伐を幕府に命じた。

第二次長州征伐において、幕府は長州藩に敗北。なお、四百万石の幕府が僅か三十六万石の長州藩に負けた背景には、イギリスが、長州藩の武装強化に助力していたことがあった。

第15代将軍になった慶喜は、その当時イギリスに対抗すべく幕府に近づいてきたフランスの力を借りて、以下のような軍制改革に着手した。

1.軍役義務の変更・強化

三千石クラスの旗本の軍役義務の内容を、「動員人数56人、銃手3人」から「動員人数34人、銃手全員」とし、少数精鋭化による攻撃力の増加を図った。

2.旗本の体制強化

旗本が個別に軍役を務める体制を改め、旗本全員に小銃を持たせて、統一的な常備軍に編成した。

3.指揮命令系統の明確化

老中格の陸軍総裁、若年寄の軍事奉行、銃隊の現場指揮官の陸軍奉行並を設置し、指揮命令系統を明確化した。

4.兵隊への給金の支払元の変更

旗本が兵に対し給金を支払う体制から、旗本が禄高に応じて給金相当額を幕府に上納し、幕府が兵に対し給金を支払う体制に変更することにより、幕府の直轄常備軍であることを明確化した。

5.フランスからの指導者の招聘

ロッシュの勧めにより、フランスから陸軍軍事教官を招き、伝習所及び士官学校を創設し、兵隊の育成・強化を行った。

このような軍隊の改革により、慶喜は、1868(慶応3)年末には、歩兵七個連隊、騎兵一隊、砲兵四隊を内容とする計1万数千人の近代陸軍を整備することができた。僅か数年の間に、幕府の軍事力近代化に成功した慶喜の将軍としてのリーダーシップは見事であった。

徳川慶喜がリーダーシップを発揮した場面③(大政奉還)

徳川慶喜がリーダーシップを発揮した場面③(条約勅許)

幕府との連携を主軸とした公武合体を唱え、且つ慶喜の良き理解者でもあった孝明天皇が1867(慶応2)年1月に死去したが、このことは、諸藩からの信頼が失われていた幕府にとって大きな痛手となった。

それに加えて、前記の四候会議に実質的な政治的権力を付与させようと企図していた薩摩藩は、その政治的意図を慶喜によって崩されたため、その後は幕府批判をする側にまわり、長州藩、土佐藩の板垣退助及び岩倉具視と組んで討幕を図るようになっていった。

このような時代背景の中、1868(慶応3)年10月3日、土佐藩の山内容堂等が、大政奉還の建白書を幕府に提出した。

同年10月12日、慶喜は、老中以下在京の幕府役人に対して、大政奉還の決意を告げることになる(これは、前記の「青天を衝け」で放映されたシーンの場面である。)。

同月14日、慶喜は、明治天皇に大政奉還の上表を提出した。

大政奉還の上表には、

そこで旧来の古い慣習を改めて政権を朝廷に返上し,広く天下の議論をつくした上で天皇の御決断を仰ぎ,心を一つに力を合わせて公武ともに我国を守っていけば,必ず世界列国と並び立つことができましょう。

旨の内容が記載されていたが、これは、明治政府が出した五箇条の御誓文にある「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」や「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」に通じる内容であった。

慶喜は、自ら幕府の軍隊近代化を図ったものの、強化された武力で討幕派と戦うのではなく、諸外国の政治的圧力に伍していくために、日本国が天皇の下で一つにまとまって国力を高めていくことに舵を切るために行ったのが大政奉還であった。

また、討幕派の動きも活発な中、慶喜は、大政奉還をすることで討幕派との武力衝突を回避する効果も狙っていた。

徳川慶喜がリーダーシップを断念した場面(鳥羽伏見の戦い)

徳川慶喜がリーダーシップを断念した場面(鳥羽伏見の戦い)

そのような慶喜の思いとは裏腹に、西郷隆盛、大久保利通等の薩摩藩、木戸孝允等の長州藩等は、討幕の密勅を得て、明治天皇をして幕府を朝敵と位置付けることに成功した。

薩摩藩等は、江戸においていくつもの騒動を仕掛けることで幕府側を挑発し、幕府による攻撃を受けたことを契機に、武力での討幕活動を開始するに至った。

慶喜は、ここまで武力衝突を回避すべく尽力してきたが、幕臣等における主戦論の高まりにおされてやむなく応戦することを決断し、鳥羽伏見の戦いに臨むのであった。しかしながら、薩摩・長州軍に先制攻撃をされ、鳥羽伏見の戦いでは不利な形勢となった。

このため、慶喜は、会津藩の松平容保等を伴って大阪城を抜け出し、大阪湾から軍艦開陽丸に乗船して江戸に逃げ帰った。その後、慶喜は恭順謹慎する決意をし、水戸そして静岡と移り住み、長年にわたって謹慎生活を送ることとなった。

慶喜に置き去りにされた旧幕府軍は、その後の戊辰戦争で徹底抗戦を図ったため、多数の犠牲者を出すに至った。

鳥羽伏見の戦いの緒戦で不利になったとは言え、その当時、幕府軍は大阪に薩摩・長州軍より遥かに多い約2万人以上の兵力を擁していたにも関わらず、慶喜が突然に逃亡したのは謎が多いところである。

徳川慶喜のリーダーとしての評価は

ここで、危機時に求められるリーダーの資質について再掲の上、徳川慶喜のリーダーシップについて検証したい。

  1. 決断力(慎重な検討と大胆な決断)
  2. 実行力
  3. コミュニケーション力
  4. 情熱
  5. 冷静さ
  6. 忍耐力・執着力
  7. 情報収集力及び社内外のネットワーク構築力
  8. 大局観と洞察力
  9. 柔軟で創造的な発想力

再掲

これまでの慶喜がリーダーシップを発揮した場面をみると、①で慶喜が条約勅許を取得した際には、上記の1~6及び9の能力が如何なく発揮されていた。

特に、会議に参加していた者等を説得するコミュニケーション力とその粘り腰を見せた忍耐力は類まれなものがある。②の幕府軍の軍事的近代化の場面では、7の情報収集力と実行力が発揮されており、③の大政奉還時には、8の大局観と1の決断力がまさに発揮されたものと言うことができる。

しかしながら、最後のリーダーシップを断念した場面では、5の冷静さ、6の忍耐力、そして8の大局観と洞察力を欠いていたと言わざるを得ない。これは、慶喜が政治は得意であっても、軍事は得手でない面を有していたからかもしれない。

如何なるリーダーも人間である以上、弱みもあれば失敗することもある。慶喜は、そのようなリーダーとしての素晴らしい力を発揮した時代と、上手くコントロールできなかった時代の両方を経験した悲劇のリーダーであった。

もし、現代の議会政治が中心の世代に慶喜が生きていたなら、慶喜は、その行動力とコミュニケーション力で長期的に大成功を収めていたのかもしれない。

凋落した幕府の将軍として役割を全う

今回は、徳川慶喜という、まさに日本の政治の分岐点の時代に活躍したものの、最後の逃亡により歴史的な評価が分かれるリーダーを題材として、そのリーダーシップを見てみた。徳川慶喜は、29歳の時に将軍となり、30歳の時に大政奉還により将軍職を降り、その後76歳で死亡するまでの間、静岡を中心に静かに趣味の写真や釣り等を楽しみながら余生を送った(公爵になり貴族院議員になった時期もある。)ことは、あまり知られていない。

もし、慶喜が最後まで薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と戦っていたら、更に大勢の死傷者が出て、慶喜自身も30歳の時に亡くなっていたであろう。

そういう意味からすると、凋落していた徳川幕府の最後のリーダーとして、慶喜は立派にその責務を果たしたと評価しても良いのではないかと思う。

以 上

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