読了目安:12分
歴史上の人物にみるリーダーシップ論(フランクリン・D・ルーズベルト編)
歴史上に名を残した人物の多くは、数多くの危機に直面し、それを卓越したリーダーシップで乗り切ってきた。急速な環境変化に直面する原題の経営者にとって、何が必要なのか。今回は、世界恐慌の危機を乗り越え、歴代大統領の中でも米国内での人気が常に高いフランクリン・D・ルーズベルトについて取り上げたい。
F・D・ルーズベルトについて
米国第32代大統領F・D・ルーズベルトは、米国の歴代大統領の人気投票で常に上位に入り、現在の超大国である米国の基礎をつくった大統領である。1929年以降の世界恐慌、そして第二次世界大戦という米国の二大危機を乗り切ったまさに危機時のリーダーである。
米国の大統領で唯一4選を果たし、在任期間が約12年に及んだ。その人生は、挑戦と苦難の連続であり、危機時にもリラックスをして職務を楽しんでいた大統領であった。
1 F・D・ルーズベルトの生い立ち セオドア・ルーズベルトと遠縁
F・D・ルーズベルトは、1882年1月30日にニューヨーク州のハイドパークで、鉄道会社の副社長で地主であった父ジェームズ・ルーズベルトの息子として誕生した。ルーズベルト家は、18世紀に「ハイドパーク・ルーズベルト」家と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家の二つに分かれていたが、米国第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは、この「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家であり、F・D・ルーズベルトにとって遠縁の従兄にあたる。
2 結婚、弁護士そして政界へ
F・D・ルーズベルトは、1905年にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアンナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。その後、弁護士となってニューヨーク州の著名な法律事務所に勤務した。
その当時から政界を意識しており、1910年の26歳の時にニューヨーク州議会議員選挙で州上院に民主党候補として出馬するチャンスが到来。共和党が優位な選挙区であったが、大方の予想を裏切り、見事に勝利する。
大統領選(副大統領候補として出馬)の敗退、療養で一線から一時退いたものの、政治家として大統領への道を進むことになる。
世界恐慌とニューディール政策
1 世界恐慌
1929年前半までの米国経済はバブルに近い、空前の活況を呈していた。しかしながら、1929年10月24日のニューヨーク株式取引所の株価大暴落(「暗黒の木曜日」)をきっかけに、その状況は一変する。株価は暴落し、3年間でピーク時の90%下落するに至った。米国の失業率(対非兵役労働力人口)は23%まで上昇し、米国の実質GDPも1929年から1932年にかけて約24%も下落した。
2 1932年大統領選 ニューディール政策 独立独歩には限界
世界恐慌に対し、フーヴァー大統領は政府からの融資で金融機関を援助し、金融機関が企業に融資することによって経済を回復させる施策を実施していたが、その効果は限定的であった。
連邦政府としての大規模な国民に対する救済は、米国国民の独立心を奪うため、地方政府や個人の慈善事業として自発的に行うべきものであり、連邦政府が行うべきものではないというのがフーヴァー大統領の考え方であった。
これに対し、F・D・ルーズベルトの価値観は異なっていた。不況で喘いでいる「不幸な市民に対し、政府は慈善事業としてではなく、社会的義務として援助を与えなければならない。」との意見であった。
F・D・ルーズベルトは、ポリオによる下半身麻痺によって周囲からの援助なく生活ができない状況だったこともあり、国民が危機に瀕している際には、独立独歩の原則には限界があり、連邦政府は国民への援助を積極的に行うべきという価値観であった。
F・D・ルーズベルトは、1932年の大統領選において、「不況の元凶」として支持率が著しく低下していたフーヴァーと戦った。
その際、「三つのR – 救済(relief)、回復(recovery)および改革(reform)」の綱領を掲げた上で、スピーチの中でニューディール(新規まき直しの意味)という用語を使用した。
その結果、見事に大統領選を制し、第32代米国大統領に就任した。
ニューディールという言葉は、演説でさりげなく使っただけだったがたちまち流行りだし、F・D・ルーズベルト政権の中心的なスローガンとなった。
3 わかりやすい言葉で、直接語りかける
F・D・ルーズベルトは、大統領就任演説において、「国民は行動を求めています。それも直ちに行動することを。私は議会に対し、この緊急事態を戦うに際して、国が外国の敵によって侵略された場合に私に付与されるのと同等の行政権限を要求します。」と述べ、直ちに行動を実行することを誓った。この演説は、ラジオ放送を通じて何千万人の聴衆に伝えられ、人々に勇気を与えた。
F・D・ルーズベルトは、このようにラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話」(fireside chats) と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。
F・D・ルーズベルトは、就任後すぐに銀行を4日間休業させ、就任後5日目に開催された議会で、緊急銀行救済法を成立させ、資力のない銀行を連邦政府の財産管理者の管理下に置くこととして、銀行破綻による信用不安を回避する施策を実施した。
一方、できるだけ銀行が業務再開をできるよう、F・D・ルーズベルトは、炉辺談話において、「再開された銀行にお金を預ける方が、布団の下に置いておくよりも安全です。」と分かりやすい言葉で説明し、国民が銀行からお金を引き出すのではなく預ける行動を推奨し、銀行の危機を救った。
その後、F・D・ルーズベルトは、民間資源保存団(CCC)(国有林や国立公園の植林や改良工事等を失業中の青年を雇用して実施)、事業推進局(WPA)(労働者を政府が雇用し、全土で道路、空港、郵便局、病院等を建設)、テネシー渓谷開発公社(TVA,テネシー川流域のダムや水力発電施設の建設)等の公共事業による失業者対策を実行した。これらは、ケインズ的な政府の介入による積極的な財政施策であり、ニューディール政策と呼ばれた。
このほか、F・D・ルーズベルトは、団体交渉権の確立による労働者の地位向上、そして社会保障(失業保険)の充実等の政策を実行した。そのような施策が功を奏し、F・D・ルーズベルトが大統領に就任した1933年以降、景気は回復過程に入り実質GDPは年々上昇していき、1936年の大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で見事に再選を果たした。
危機時のリーダーに必要な資質
危機時のリーダーに必要な資質を整理すると以下の通りであるが、これらの多くは、F・D・ルーズベルトに当てはまっている。
- 決断力(慎重な検討と大胆な決断)
- 実行力
- コミュニケーション力
- 情熱
- 冷静さ
- 忍耐力・執着力
- 情報収集力及び社内外のネットワーク構築力
- 大局観と洞察力
- 柔軟で創造的な発想力
情熱と実行力
ニューヨーク州の上院議員になった当時のF・D・ルーズベルトは、その当時ニューヨークの政界を支配し、数々の醜聞と腐敗を生んできた民主党派閥「タマニー・ホール」と対立するグループのリーダーとなった。当時の連邦上院議員選挙は、州議会議員の投票によって行われていたが、F・D・ルーズベルトは、タマニー・ホール派の候補を打ち破ることに成功し、名声が高まった。 正義感のために腐敗とたたかう情熱と実行力は、驚異的であった。
柔軟で創造的な発想力
1913年、ウィルソン大統領の時にF・D・ルーズベルトは、海軍次官補に任命され、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立。第一次世界大戦の中、様々な海軍強化のためのプロジェクトを主導した。その際、どんな難しいプロジェクトでも果敢に挑戦するも、一つのアイデアが上手くいかない場合には、すぐにその他のアイデアを試すといった柔軟な対応をして大活躍した。
忍耐力 ポリオによる下半身麻痺から政界復帰まで
1920年、F・D・ルーズベルトは、38歳の時に民主党全国大会で副大統領候補に選出され、大統領候補であったジェームズ・M・コックスとともに大統領選を戦った。しかしながら、共和党候補のウォレン・G・ハーディングに敗れたため、F・D・ルーズベルトは、政界を離れ、弁護士業に戻ることとなった。
弁護士業を行う傍ら、大手金融会社の副社長として平穏な日々を送っていたF・D・ルーズベルト1921年に難病であるポリオ(小児麻痺)を患うことになった。その後の療養によってある程度は回復するも下半身は不自由なまま、脚部補助器具を付けてその後の一生を過ごすことになる。
1920年から1928年にニューヨーク州知事になり、政界に復帰するまで8年間は、F・D・ルーズベルトにとって苦難な時代であったが、持ち前の明るい性格から、保養地のウォームスプリングスで療養をしながら、前向きに人生を生きていた。
決断力
大統領就任5日後に緊急銀行救済法を成立させたこと。そして、今でこそケインズが提唱した積極財政政策は各国で実施されているが、その当時前例のない世界恐慌の時代において、政府が直接的に失業者対策を実施する施策を速やかに決断し、すぐに実行したことは、まさにリーダーに必要な決断力と実行力をフルに発揮したものであった。
コミュニケーション力 炉辺談話・演説の名手
F・D・ルーズベルトは、療養中であった1924年の民主党大会で、アルフレッド・E・スミスの応援演説を頼まれ、聴衆から大喝采を浴びた。その後、1928年の民主党大会で再度、スミスから応援演説を依頼されるとともに、その年のニューヨーク州知事選に出ることをスミスから説得され、F・D・ルーズベルトは、僅差でニューヨーク州知事に当選した。
大統領就任後はラジオの前で毎週国民に語り掛ける炉辺談話は、気さくに国民に対する分かりやすい説明を行うトークが国民の人気を呼んだ。F・D・ルーズベルトは、終始この卓越したコミュニケーション力で人々の支持を取り付けていった。
情報収集とネットワーク構築力 ブレーントラスト
F・D・ルーズベルトは、1932年の大統領選において、コロンビア大学から若くて優秀な教授たちをスカウトし、自らの政策策定のブレーンとして起用した。これは、「ブレーントラスト」と呼ばれ、F・D・ルーズベルトの情報収取力とネットワーク構築力の証となっていた。
冷静さと大局感 危機時における仕事を楽しむ
F・D・ルーズベルトは、危機の真っ只中にあってもリラックスできる才能を持っていた。ホワイトハウスのプールの中で、水しぶきをあげながら政府の高官と一緒に仕事をしていたような状況もあった。このように自分の心をコントロールできる力は、冷静さと大局的な思考ができる要因となっていた。
最後に
企業経営において、組織を変革し、経営危機を乗り切るためには、F・D・ルーズベルトと同様に、決断力と実行力、コミュニケーション力、情報収集力、そして大局観は大いに参考になる。これからも、歴史上の様々なリーダーの生き様から、組織のリーダーにとって大切な要素を学ぶことを続けていきたい。
コメントが送信されました。