読了目安:10分
「大変革」の時代を生きる 渋沢栄一のリーダー像 ㊥起業家として、投資家として
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の放映が終盤を迎えている。明治期に入り、官僚や企業家としての活躍はめざましく、「近代日本経済の父」と呼ばれる人生が躍動的に描かれている。㊥では、中年から壮年期にかけて、今で言うベンチャーキャピタリストやターンアラウンドマネージャーとしての活躍に焦点を当てる。
起業家兼投資家(ベンチャーキャピタリスト・プロ経営者・ターンアラウンドマネージャー)
渋沢栄一が、約500社もの企業に携わったと言っても、約500社を設立した訳ではない。そのパターンを分類すると、以下の通りである。
1 設立時から関与
会社の設立時から「設立委員」「創立委員長」といった形で関っていた場合(その際に一部出資をしていた場合も含む)
例:現在の東京海上日動火災保険、帝国ホテル、王子製紙等
2 社長、会長として関与
設立時には関与していないが、社長、会長等の肩書を持って経営に参加していた場合(その際に一部出資をしていた場合も含む)
例:現在のみずほ銀行、東日本旅客鉄道、日本郵船等
3 出資のみ
出資者としてのみ参加していた場合
例:現在の古河機械金属等
4 経営指導のみ
形式的な肩書等は持たずに、経営指導等を行っていた場合
例:現在の清水建設、七十七銀行等
5 再建に関与
不振会社の立て直しのために経営に参画した場合
例:現在の東洋紡の前身の三重紡績等
このような分類からすると、栄一は、現在のベンチャーキャピタリストと同様の活動をしていたことが分かる。
ただし、栄一の行動は、通常のベンチャーファンドと異なり、投資家のために高いリターンを出すことが目的ではなかった。
栄一の行った投資の目的は、日本が世界に伍して発展していくために必要な産業基盤となるインフラ産業(金融、鉄道、製紙、鉄鋼、紡績、ガス、鉱業等)の整備であり、且つそれを儲かる事業に育てていくことであった。
他の事業家から資金を集めるとともに、併せて自らの自己資金投資を行いながら、リスクもとりつつ対象となる企業の経営に関与していったのである。栄一は、主たる給与を第一国立銀行(現みずほ銀)から受給を受けていたが、その他の収入は投資した先の株式配当が中心であった。
また、所有している株式は有利な時期に売却し、当該売却金は、新たに起業又は経営に関与する会社に対する新規投資資金に充てていったのである。
栄一の拘り、人材ネットワーク
栄一がもう一つ拘っていたのは、経営者人材ネットワークである。栄一が多数の事業を同時手掛けていくために活用したのが、経営者人材ネットワークである。
そこには、浅野総一郎(現在の太平洋セメント等多数の企業を創業)、大倉喜八郎(現在の帝国ホテル等を創業)、益田孝(三井物産の創設者)、鳥井駒吉(現在のアサヒビールの創設者)等の著名な事業家がいた。
これらの事業家は、栄一と一緒に出資も含めて事業の創設・運営等を行った。その他、栄一には、関与した企業のモニタリングを担当する経営サポート人材等も多数存在していた。現在のファンドマネージャー及びプロ経営者は、自ら構築した多様な経営者人材ネットワークを駆使して、投資先又は経営している会社のバリューアップを行っているが、栄一の行っている活動はほぼそれと同様の活動であった。
岩崎弥太郎との比較
また、栄一とよく比較される実業家に岩崎弥太郎(三菱財閥の創設者)がいる。
岩崎は、当時多くの会社の株式を公開せず、経営を一族で独占する閉鎖的な手法を採用していた。これに対し、栄一が関わった企業は、多くが株式会社の形態を取り、少額でも広く民間から出資を募って、「開放的な経営」を推進していた。
これは、設立した会社について株式上場を行うのと同じ発想である。栄一は、自ら関与する企業に多数の株主による資本参加を促し、開かれた企業として成長させていくのを理想としていた。このため、栄一は、自ら企業を独占する渋沢財閥をつくることはしないようにしていた。
岩崎との対立
ドラマ「青天を衝け」で次のようなシーンがある。岩崎が、栄一に対し一緒に組んで産業を独占しようと働きかけたのに対し、栄一は「合本法でやらなければならない。今のようではいけない。」と反論し、会談は平行線に終わったシーンが描かれた。
栄一の言う合本法とは、事業を興すために人材と資金を集め、それらの人々との熟議によって事業を営み、そこで得られた利益を皆で享受する方法を言う。
これは、まさに栄一の人生の生き様そのものを現す考え方であり、現在のコーポレートガバナンスの考え方のベースとなる考え方と言っても過言ではない。
渋沢栄一の企業設立・運営事例
ここで、栄一の企業設立・運営事例を二つほど紹介しよう。
日産化学の事例から
一つは、大日本人造肥料社(現在の日産化学)の設立事例である。
明治20年頃の日本の農業は、人肥や堆肥を利用していたが、肥料としての効果が薄く、農業の生産性と農産品の品質の低さの要因となっていた。
その頃、科学者の高峰譲吉が栄一のもとを訪れ、作物に本当に必要な成分だけを使用して製造される人造肥料の必要性を訴えた。これに応えて、栄一は、日本の農業の発展のため、高峰を技術長として起用した上で、東京人造肥料会社を設立した。
しかしながら、見慣れない肥料でコストもかかる人造肥料を農家に普及させることは容易でなかった。また、当初は作物ごとに成分を調整しての人造肥料製造ができなかったため、肥料の効果を農家に示すこともできなかった。
これに加え、技術長を担っていた高峰が、設立後まもなく米国で研究者として生活をすることになり退社した他、度重なる工場火災に遭い、会社は破綻に瀕する状態になった。
一緒に事業に参画した共同出資者等も東京人造肥料を見限って会社を去っていったが、栄一は違った。
この事業は利益のみを目的としたものではなく、農村振興、ひいては国家のために必要な事業であり、必ず将来有望な事業になると計画した事業であるから、共同事業者が辞めていくなら、自分一人で会社の経営を担うことを決断し、その後見事に経営を軌道に乗せることに成功した。
具体的にいうと、栄一は、まず財務的に弱った東京人総肥料の資本政策を見直し、減資と損失補填を実施した。また、外部から調達していた高コストな原料である硫酸を自社工場で製造できるようにし、製造原価の圧縮に努めた。
加えて、明治27年頃から人造肥料の需要が激増し、東京人造肥料はその後十分な収益を生む会社となり、その後数社を合併して大日本人造肥料という大会社に育てていったのである。
起業をして事業を軌道に乗せることはいつの時代でも容易ではない。それでも、栄一が幾多の苦難を乗り越えて事業を軌道に乗せたのは、栄一が日本国のために事業を行うのであるという高い次元の経営理念を有していたことと、栄一が、自ら出資をして危機に瀕した経営を軌道に乗せるという経営実行力を有していたことに基づく。
今でいえば、栄一は、偉大な起業家・投資家であるとともに、厳しい局面の企業を乗り切る偉大なターンアラウンドマネージャーでもあった。
日本煉瓦製造
▲写真説明 ホフマン輪窯6号窯(深谷市提供)
二つ目の事例は、日本煉瓦製造社の事例である。
日本が、明治維新以降、欧米の文化を取り入れつつ先進国の仲間入りを果たすための象徴として、煉瓦造りの洋風建物の建築を推進する必要性があった。
栄一は、明治20年に日本煉瓦製造の会社を設立し、利根川流域にあり土質も良好な地域であった埼玉県大里郡上敷免町に同社の工場を設置した。
ドイツ人技師を招聘し、ホフマン式焼窯とコール式乾燥室を設置したが、乾燥室は日本の気候に馴染まないこともあり不具合のまま、当初の計画通りの上質な煉瓦は製造できなかった。
それでも煉瓦製造事業は操業を継続したが、利根川の大洪水による工場の浸水等の災難もあり、日本煉瓦製造の運営は困難を極めた。
資本増強のため、複数回にわたり増資や社債を企図したが、折からの不景気と会社の損失継続により引き受け手は出現しなかった。栄一は、日本の発展のために行った事業である以上、途中で断念すべきはないと考え、自身と栄一の信頼する事業家とで出資や社債をそれぞれ引き受けて、煉瓦製品の品質向上にも順次取り組み、経営を継続していった。
その間、難所として知られる碓氷峠(信越本線横川~軽井沢)の鉄道工事に必要な大量の煉瓦の製造を受注するために工場設備の拡張を行うとともに、深谷駅と上敷免町との間に、日本煉瓦製造社専用の運搬用鉄道を敷設することで事業の効率化を図った。
そのような栄一の粘りの経営が功を奏したのは日清戦争が終了した後であった。その頃の景気は大きく好転し、様々な事業会社で工場や建物建設が着工され、それに必要な煉瓦の注文は急増した。
日本煉瓦製造も利益を生み出す体質が定着し、明治32年には借入金を完済し、順調に発展を遂げていった。
起業家として、投資家として
渋沢栄一は起業家として、投資家として、再建を請け負うプロ経営者としても偉大さが現れていた。農家、商人、武士、官僚と様々な経歴を経て、民間の企業家となったが、その後も多彩な活躍を見せるのである。
次回㊦「論語と算盤」
▽過去記事はコチラ
「大変革」の時代を生きる 渋沢栄一のリーダー像 ㊤激動の人生
コメントが送信されました。