今だから言える「産業再生機構」誕生秘話 設立から20年、前代未聞の〝国家機関〟に立ちはだかったもの

政府が企業再生を手がけるという、世界でも前例のない組織「産業再生機構」の設立から20年が経った。設立初期のメンバーとして機構に入った私は、企業再生を専門とする弁護士として、4年弱の間、濃密な日々を過ごすことになる。

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負債2.3兆円、日本リース再建で仕掛けた離れ業

負債2.3兆円、日本リース再建で仕掛けた離れ業

2003年に発足した産業再生機構には、「民業圧迫」といった様々な批判や困難が待ち受けていた。そんな中、ダイエーやカネボウをはじめとする41件の会社の再建で結果を残し、2007年、当初の予定を1年前倒しする形で解散する。約400億円の利益を出して国庫に納めただけでなく、経営改革によって企業の価値を引き上げるという事業再生の道筋を作ったことは、日本経済に残した機構の大きな成果と言えるだろう。

私は、バブル経済がはじけ日本経済が揺れ動く1992年に弁護士となり、奧野総合法律事務所に入った。事業再生の専門家である所長の奧野善彦先生のもとには、バブル経済の崩壊により倒産事件の相談がたくさん舞い込んでいた。
その中でも特に記憶に残っているのが、1998年から1999年にかけての日本リースの再建だ。日本長期信用銀行の関連ノンバンクだった日本リースが抱えた負債は、当時、戦後最大の約2兆3800億円にのぼっていた。1963年に日本初の総合リースとして設立された日本リースだったが、バブル期に貸し出し事業へ手を広げた結果、多額の不良債権を抱えていたのだ。巨額負債の存在は、当時、日本経済に計り知れない打撃を与えるのではないかと受け止められていた。

日本リースは、文字通りリース業をなりわいとしている金融会社であるため、企業としての信頼が揺らぐと事業の根幹が崩れてしまう深刻なリスクを抱えていた。再生に時間がかかればかかるほど金融資産の価値はどんどん減り、打つ手立てが限られてしまう。いかに迅速に企業の資産と雇用をスポンサー企業に移していくか。何より「スピード勝負」という状況にあった。

そこで管財人に就任した奧野先生が注目したのが法的整理を待たない「更生計画策定前の事業譲渡」だった。従来、会社更生法の規定で想定されていた資産の管理処分権の法解釈を拡大。資産を譲渡できるなら事業も譲渡できるという新しい解釈によって、日本リースの債権を素早く移すことを目指したのだ。

私は実務の責任者として、奥野先生とともに裁判官や債権者に説明をしてまわることになる。当初、裁判官は従来通りの法解釈しか認めないという姿勢だったが、金融会社の債権にとってスピードがいかに大事かを丁寧に説明することで理解を得ていった。

1998年9月に会社更生法の適用を東京地方裁判所に申請した日本リースは、1999年1月、リース事業をGEキャピタルに譲渡することに成功する。約8000億円の売却金は、その後に策定される更生計画のもとで、債務の返済と不動産事業に絞った会社の再建にあてられた。会社更生下の事業がスポンサー下で再建を開始する事案としては、当時、異例の早さだったと言える。

これは、金融会社において再建型の法的整理を成功させた初めてのケースにもなった。従来の会社更生の手続きに則って進めていたら、更生計画をつくるだけで1年はかかっていただろう。そうなると、金融会社である日本リースの再出発は難しかったかもしれない。

「倒産弁護士」から産業再生機構への挑戦決意

「倒産弁護士」から産業再生機構への挑戦決意

このように倒産専門の弁護士「倒産弁護士」としてキャリアを積んだ私だったが、事業の再建の過程において、そこで働く人の雇用と生活を守ることに、弁護士としての大きなやりがいを感じていた。

日本リースの再建のような会社の法的整理による再建の時代から、裁判所主導ではない私的整理中心の時代に移っていく時代の流れにおいて生まれたのが産業再生機構だった。法的整理においては、再生計画をつくり、債権者との利害調整を行い、事業をスポンサーに引き継ぐまでが、「倒産弁護士」としての主な仕事になる。でも、機構での仕事なら、利害調整にとどまらない、その先の事業を再建し、正常化するまでも手掛けられることへの期待があった。

「倒産弁護士」として約11年間、企業再生に携わっていた私にとって、機構で自分の経験をいかせるのはまたとないチャンスだった。機構に入れば、それまで弁護士として担当していた案件や顧客は同僚に引き継ぐことになるが、奧野先生にも相談した上で機構への参加を決意。弁護士会を通じて応募をした。

期待と不安の中、舞い込んできた三井鉱山の再建

期待と不安の中、舞い込んできた三井鉱山の再建

とはいえ、ビジネスモデル自体、まったく確立されていない混沌とした中でスタートしたのが産業再生機構の実態だった。再生計画をどうやって作るか、どういうメソッドでやるのか、何も定まっていなかった。それでも、早く実績を作り、必勝パターンをきっちり生み出さなければいけない。期待と不安の中で舞い込んできたのが三井鉱山の案件だった。

三井鉱山は、石炭需要の低下などによって経営状態の悪化が続いていた。機構が子会社化した時の負債は約2300億円。三井鉱山の再建は、機構の1号案件にはならなかったものの、戦後の日本の石炭産業を支えた老舗企業でもあり、初の大型案件と言えるものだった。

私が各種DDの他にメインで担当したのが債権者との交渉だったが、特に難航したのが地域の金融機関との向き合いだった。産業再生機構といっても、現地の地銀などからするとほとんど認知されていない存在であった。「何をしにきた人なんだ」という、敵対的なムードのところから交渉を始めなければいけない状況だった。

さらに困難を極めたのが土地の評価額だ。三井鉱山が各地に持っていた土地は、金融機関の評価額と市場価格に大きな差があった。石炭の山の近くにある土地が多く、時価で計算するとそれほど高値で売れるわけではない。しかし、地域の金融機関は10年も20年も前にとった従前の評価額が、当然ながら担保評価の交渉のベースになっており、その間の乖離は少なくない状況だった。

我々、機構は税金によって運営されている国の機関なので、そこは厳正な評価をしなければならない。土地の評価額を下げることに対して当然、金融機関は納得しない。それでも粘り強く適正な価格に押し戻すといった交渉を続けた。時には、産業再生機構委員長の高木新二郎先生に直接、交渉の場に来ていただくこともあった。そうやって一つずつ、評価額を着地させていった。

「日本は世界から見捨てられる」危機感に呼応

「日本は世界から見捨てられる」危機感に呼応

当時の日本を揺さぶっていたのが不良債権の存在だ。機構の発足にあたって、斉藤惇社長は記者会見で「(産業再生が)できないと、日本は世界から見捨てられる」と訴えた。バブル崩壊後の日本経済は、今では想像もつかないほどの危機感があったのだ。

設立初期のメンバーは、そんな斉藤社長の言葉に奮い立って入った人ばかりだった。みんな責任感が強く、時間を忘れて仕事に没頭した。後に共同でフロンティア・マネジメントを設立することになる松岡真宏をはじめ、同世代の異業種で活躍している人たちと一緒に仕事ができたのは、機構ならではの経験だったと言える。みんな、日本のため、産業のため、企業のために全力で取り組むというやる気に満ちあふれていた。

異業種の仲間と過ごした厳しくも充実した日々

私が参画した産業再生機構が日本経済に果たした役割は小さくないように思う。その後に担当したカネボウの案件では、コア事業に集中するためにノンコア事業を切り離した上で再建を目指した。事業再生のベーシックな手法である「グッドバッド方式」などを実践していったのが機構だった。これらの活動は、その後、日本企業が構造改革という自助努力によって再建する際の参考になっていった。

世論からの厳しい声を受けてのスタートであり、メガバンクも様子見という状況の中、三井鉱山の再建は、私が知る限り、周囲の信頼を得るきっかけになったと思う。様々な分野のプロたちとがむしゃらに成果を求める、厳しくも充実した時間を過ごすことができた。そうやって徐々に土台を作り上げていく中で舞い込んできたのが、1887年創立、民間企業として売上高が日本一になったこともある名門企業カネボウの再建だった。いよいよ機構の真価が試される時がやってきたのだ。

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