歴史を動かした人物②榎本武揚「最後の幕府の軍総帥」

旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争で、旧幕府海軍副総裁として最後まで新政府と戦った武士、榎本武揚をご存じの方も多いだろう。一方で、榎本が戊辰戦争後に新政府軍で要職を歴任して活躍したことはあまり知られていない。今回は、明治維新前後の重要局面において活躍した榎本武揚の「軍人(政治家)としての生き様」をご紹介したい。

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なぜ「尊皇攘夷論」は生まれたのか

なぜ「尊皇攘夷論」は生まれたのか

アメリカ東インド艦隊司令長官であったペリー率いるアメリカが1853年、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し日本に開国を求めたことで、日本国内では江戸幕府の鎖国制度をめぐり、外国勢力を武力等で追い払う「攘夷派」と、外国勢力と協調して開国を部分的に進めていく「開国推進派」に分かれた政治抗争が始まった。

日本で政治抗争が始まった背景には、アヘンの全面禁輸を断行した中国(清)に反発したイギリスが中国(清)に対して仕掛けた「アヘン戦争(武力行使)」が影響している。

アヘン戦争で中国が敗れた結果、南京条約(1842年)の締結で香港のイギリスへの割譲が決定したのだ。

その情報が日本に広まったことで、「外国の武力行使」による脅威が意識されるようになった。果たして鎖国中の日本が、近代的な戦力をもつ外国の武力行使に対抗できるのか、それとも、今のままでは対抗できないのか、という点についての認識の差が、日本国内での政治対立につながったのだ。

徳川家が将軍を務める江戸幕府(老中首座 阿部正弘)は、ペリー来航による開国要求への対応策を諸大名や諸藩士、一般庶民に求めた。

一方で、江戸幕府は大型船の建造を禁止して軍艦を保有していなかったことから、アメリカとの戦争には勝ち目がないことも認識していた。そのため幕府は、アメリカの開国要求を部分的に受諾しながら、なるべく時間を引き延ばして、その間に軍事力(海軍)を強化する方向性しかないと考えたのだ。

そうした環境において、外国政府への日本の対応に関する考え方として唱えられたのが「尊皇攘夷論」だ。尊皇攘夷論は、身分制度の最頂点に位する天皇の伝統的権威の尊重を説く「尊王思想」と、東洋文化とは異質の文化をもつ欧米諸国の排撃を説く「攘夷思想」が結合し、幕府政治の改革と統一国家の樹立を求める政治運動である。

水戸藩主の徳川斉昭、藤田東湖や会沢正志斎といった儒学者が唱えた水戸学がこの「尊皇攘夷論」を採ったため、全国の武士層にも大きな思想的影響を与えるとともに、朝廷自身も攘夷論を唱えるようになった。

倒幕の動きが進んだ理由

倒幕の動きが進んだ理由

「攘夷」と「開国」という2軸の考え方が広がるなか、1858年に大老に就任した井伊直弼は日米修好通商条約を未勅許のまま締結。そのうえで井伊は、幕府に対して反対する尊王攘夷派の勢力を弾圧した(安政の大獄)。

その結果、幕府の弾圧に反発した尊王攘夷派の水戸藩脱藩浪士らにより、井伊直弼は「桜田門外の変(1860年)」で暗殺され、幕府の混乱はより大きくなった。

一方で、過激な攘夷論を主張して朝敵(朝廷の敵)とされていた長州藩に対しては、2回にわたる長州征伐が幕府の主導により実施された。

坂本龍馬の仲介で長州藩と同盟を組んで倒幕していくことを約束した薩摩藩は、第二次長州征伐(1866年)で出兵を拒否。薩摩藩が長州藩の支援に回った結果、第二次長州征伐は事実上幕府の敗北に終わり、幕府の求心力低下が日本中に知れ渡ったのだ。

こうした動きのなか、諸藩からの幕府に対する信頼が得られない状況に至ったと判断した15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に対し大政奉還(1867年)をして、朝廷の下で徳川藩も新政府の政治に参加していく道を模索した。

しかし、薩摩藩と長州藩を中心に、徳川藩が勢力を保ったまま新政府に参加することを阻止しようと倒幕の動きが進んだ。

榎本武揚の生い立ち

榎本武揚の生い立ち

榎本武揚は1836年に御徒町で出生(幼名は釜次郎)した。

榎本の父は、伊能忠敬の弟子として「大日本沿海輿地全図(伊能図)」の作成に携わり、第11代将軍徳川家斉の御付として幕府に仕えていた。榎本は父の影響を受け、幕府に対する忠誠心と科学者としての資質を兼ね備えた人物に育ち、15歳の時に幕府直轄の学問所である昌平坂学問所に入学(1851年)。その後1856年に長崎海軍伝習所に入学した。

長崎海軍伝習所は、江戸幕府が海軍士官養成のために設立した学校である。2期生の榎本は長崎海軍伝習所で海軍伝習生だった勝麟太郎(勝海舟)に出会う。

榎本はオランダ人教師から機関学や化学などを学ぶことで頭角を現し、1858年には江戸に開設された築地軍艦操練所の教授に就任した。その後、榎本は計15名の留学生の一員として幕府の派遣でオランダに約6年間留学し(1862年~1867年)、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法などを学んだという。なかでもフランスの国際学者オルトランが書いた『海の国際法規と外交』については熱心に学び、日本に帰るときに手土産としてこの書籍のオランダ語訳の贈呈を受けた。

榎本が完成したばかりの開陽丸に乗って、オランダから横浜港に帰国したのは1867年3月。その頃はすでに留学時から環境が大きく状況が変わり、幕府軍による第二次長州征伐の事実上の失敗で幕府の権威は失われていたのだ。

戊辰戦争から蝦夷共和国樹立。そして終戦へ

戊辰戦争から蝦夷共和国樹立。そして終戦へ

榎本がオランダ留学から帰国した1867年の10月、第15代将軍徳川慶喜から「大政奉還」が奏上されたものの、徳川幕府の廃絶と天皇による新政府の成立を目指す薩長や一部の公家(岩倉具視など)が1867年12月に「王政復古の大号令」を発令。

徳川家の諸領地を朝廷へ返納すること、および官位の返還を命じ、両者の対立は決定的となった。1868年1月には、幕府の軍艦2隻が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃し、鳥羽・伏見の戦いが勃発。

榎本は開陽丸を旗艦とする艦隊を率いて、大坂湾内で薩長側の軍艦と交戦し、自沈させた。しかし、1868年1月6日、大坂城にいた将軍慶喜が味方の軍を見捨てて少数の側近とともに戦艦・開陽に乗って江戸へ逃げ帰るという事態が生じてしまったため、大坂城に入城した榎本も軍資金を携えて江戸に戻ることとなった。このとき勝から、蝦夷地への脱走を思いとどまるよう説得を受けたが、榎本はこれを拒否したという。

江戸に戻った榎本は海軍副総裁に任ぜられ、あくまでも官軍と徹底抗戦をすることを主張した。しかし将軍慶喜は、朝敵として戦うことを回避して天皇に対する恭順の姿勢を採用。水戸に謹慎することになり、江戸城は勝と西城隆盛との会談の結果、官軍に無血開城されたのだった(1868年4月11日)。

しかし、これを不服とした榎本は開陽をはじめ軍艦4隻と運送船4隻の艦隊を編成して、品川沖から北へ脱走。このとき榎本は『檄文』を公表するとともに、蝦夷地の開拓についての許可を求める内容の『徳川家臣大挙告文』を勝海舟に届け、勝から新政府に渡すよう依頼した。

榎本らはいったん仙台に寄港したが、仙台藩が新政府に恭順の意を表明し、「奥羽越列藩同盟」はすでに崩壊したため、桑名藩主・松平定敬、旧幕府陸軍総裁・大鳥圭介、新撰組副長・土方歳三らとともに約3,000名の大部隊と、合計9隻の艦隊で蝦夷地に向かった。

この蝦夷地への集団移動は、江戸幕府の崩壊で職を失う多数の旧幕臣の救済と、今後ロシアからの侵略に備えるため蝦夷地を開拓することが目的であることを新政府に対しても示していた。

1868年10月20日に蝦夷地に着いた榎本らの艦隊は、徳川幕府が開設した箱館奉行所を守るための城郭であった五稜郭を占拠するとともに、新政府軍に帰順していた松前藩を攻め、松前、江差を占領した。

2カ月後の1868年12月15日には蝦夷地を平定した旧幕府軍が、士官以上の幹部による選挙で初代総裁として榎本を選出し、「蝦夷共和国」を樹立している。

この「蝦夷共和国」に対して諸外国は不干渉立場を採ったが、アメリカは新政府支持を表明し、江戸幕府が注文した装甲艦「甲鉄」を新政府に引き渡した。

そのため、新政府軍は主力の開陽丸を失った旧幕府軍に対し、戦力的にみて圧倒的な優位に立ったのだ。新政府は1869年2月に、陸軍部隊約8,000名を青森に集結させ、5月の総攻撃により箱館市街を制圧し、榎本ら旧幕府軍は五稜郭に立てこもることになった。

その後、新政府軍参謀の黒田清隆から榎本宛に降伏勧告書が届けられたが、榎本はこれを拒否。その際榎本は、座右の書として肌身離さず愛読していた『海の国際法規と外交(万国海律全書)』のオランダ語訳本を取り出し、「この書は、今後の日本にとって役立つ貴重なものなので灰にするには惜しい。政府軍参謀に寄贈したい」という内容の書状を添えて、使者に手渡した。

この榎本の書状に感激した黒田は、返礼として酒5樽を五稜郭へ届けさせ、この時から黒田と榎本間の友情が始まった。

その後、旧幕府軍の戦況はますます悪化し、榎本は自決を決意するが、近習の大塚霍之丞が体を張ってこれを制止した。そして、榎本ら旧幕府軍幹部は、翌日に黒田と会見し降伏。幕末から続いた戊辰戦争はようやく終結し、名実ともに明治新政府が誕生したのだ。

図表1

牢獄生活から無罪放免へ

牢獄生活から無罪放免へ

榎本ら旧幕府軍幹部は東京の牢獄に収監された。しかし榎本の旺盛な知識欲と好奇心は獄中でも衰えず、読書に没頭するとともに著述も行った。

榎本が獄中で書き上げた『開成雑俎』は、鶏やカモの人工ふ化器、焼酎、石鹸、西洋ロウソクなどの製法を図解入りで書き表したもので、榎本は産業技術の発展や殖産興業こそがこれからの日本を豊かにする原動力であることを確信して、五稜郭時代から産業技術の考案や化学実験に関心を持ち自ら実践していたという。

榎本ら旧幕府軍幹部の処置については、厳罰を求める木戸孝允らの長州閥と、榎本の才能を買って助命を主張する黒田らの薩摩閥との間で調整がつかないままでいた。
しかし、北海道開拓使次官の職にあった黒田は、榎本が獄中で産業技術開発の構想を練っていることのほか、榎本が北海道開拓に並々ならぬ情熱を持っていたことから、榎本の放免活動に奔走した。結果、榎本は1872年に釈放され無罪放免となった。

黒田は無罪放免となった榎本を毎日のように訪ねて、北海道開拓にかける熱意とオランダ留学以来培ってきた科学者の資質のある榎本に対して「北海道開拓を一緒にやってほしい」旨を懇願したという。

これに対し、幕臣の中枢として新政府と戦ってきた榎本は、敵であった新政府に仕えることに大きな抵抗感を感じて大いに悩んだものの、北海豪開拓という消えかけた夢を果たすべく黒田の申し出を受諾。1872年3月に、開拓使四等出仕(県令待遇)の辞令を受けた。

北海道での榎本の活躍

北海道での榎本の活躍

開拓使として北海道に渡った榎本は、函館周辺から石狩、日高、十勝、釧路をまわって資源調査を行うとともに、空知炭田を発見し、函館に日本初の気象観測所を設置した。

ここでの功績が認められ、榎本は1874年1月に駐露特命全権公使に任命され、ロシアとの領土交渉にあたり、約1年間の交渉の末「樺太・千島交換条約」の締結に尽力した。この結果、本条約により樺太全島はロシアに、千島列島は日本が領有することが決まった。

その後の榎本の活躍は目覚ましく、1882年8月には駐清特命全権公使となり北京に赴任するとともに、その後の清国との天津条約の締結にも尽力した。

1885年に内閣制度が始まると、榎本は第1次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任し、1888年の黒田清隆内閣では、逓信大臣と農商務大臣を兼任し、その翌年には文部大臣に就任した。

1891年の第1次松方正義内閣では外務大臣となり、1894年の第2次伊藤内閣では農商務大臣に就任し、多くの反対を押し切って官営の八幡製鉄所の建設に尽力するといった活躍を見せた。その後、榎本は1908年10月26日に腎臓病でこの世を去った。享年73歳だった。

榎本の生き方について①果たして変節者なのか?

榎本の生き方について①果たして変節者なのか?

ここまで榎本武揚の一生を見てきたが、ここからは榎本の評価について考えていきたい。

榎本は1872年に無罪放免となってから、その語学力、技術者としての豊富な知識と国際法に関する知識をもとに、新政府下の日本に多大な貢献をしているにもかかわらず、必ずしもその功績に見合った評価がなされていないように思われる。

福沢諭吉は『痩我慢の説』で、徳川幕府の海軍副総裁だった男が、手のひらを返すように薩長閥の明治新政府に仕え大出世したことを「二君に見えず(まみえず)」という古い「武士道」精神とは相いれない「変節者」であると批判した。

福沢が語るように榎本は「変節者」なのだろうか。

主君の徳川慶喜が謹慎に入ったことで幕府が崩壊した後、榎本が北海道に移動して蝦夷地で新政府軍と戦ったのは、徳川幕府のためではないだろう。

旧幕臣の生活面での救済と、日本が今後想定されるロシアによる侵略に備えるため、蝦夷地を開拓することが目的だったのだ。榎本が大切にしていた万国海律全書のオランダ語訳本を勝海舟経由で新政府側に渡したのも、政権を誰が担うかは別として、日本のために少しでも貢献したいという気持ちの現れと言える。

また、榎本が初代総裁になった「蝦夷共和国」でも、新政府軍側の敵側捕虜をそのまま帰すことを許容しているほか、榎本は医師・高松凌雲を院長とする日本最初の赤十字病院(箱館病院)を創設し、敵味方の区別なく兵士の治療を行っている。

このように、榎本は徳川幕府の崩壊後、函館戦争で降伏するまで、一貫して日本のために行動しており、形式上新政府に仕えたとしても、一貫して日本のために尽力したことに変わりはない。

だからこそ、榎本に対して「変節者」という評価をすべきではないように思うのだ。

榎本の生き方について②勝海舟の生き方との違いは何か

榎本と同じ幕臣であり、長崎海軍伝習所に入門していた勝海舟は1860年、幕府が日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ派遣した使節団の一員として咸臨丸の実質的な艦長を務めた。

勝はアメリカ滞在中に、日本とは違う近代的な政治・経済・文化を見聞した後、4ヵ月後に帰国し、すでに傾きつつあった幕府で近代海軍の強化に着手した。

しかし、薩長同盟成立で第二次長州征伐での幕府軍の敗戦を目の当たりにした勝は、幕府の崩壊を見通した上で、幕府のためでなく日本のためにどのように自分が行動すべきか、という考え方で行動した。

勝は新政府軍が江戸の間近まで迫ったとき、徹底抗戦派の幕臣を説き伏せた上で、新政府側の代表であった西郷隆盛と会談し、江戸城の「無血開城」を実現させたのだ。

これは、江戸の町が戦火に晒されることを防ぐとともに、その混乱に乗じて干渉しようとする外国勢力から日本を守るためでもあった。

新政府軍と最後まで抗戦した榎本と、新政府軍と早期に和解をして江戸城を無血開城した勝は、その行動が真逆ではあるが、いずれも日本という国のために何をすべきか、ということを自分の立場で考え行動している。

勝は明治維新後において旧幕臣の代表格として兵部大丞、海軍大輔、参議兼海軍卿を歴任し新政府のために貢献したが、榎本と同様に福沢諭吉から「二君に見えず(まみえず)」という「武士道」精神とは相いれない「変節者」であるとの批判を受けている。

しかし、勝が新政府のために貢献する決断をしたのは、新しい日本のために貢献するとともに、幕臣のトップであった自らが新政府に仕えることで、旧幕臣を世に出すことに資すると考えたからであり、これをもって「変節者」と批判をすべきではない点は榎本に対する批判と同様だ。

榎本は勝とともに徳川幕府の最後に活躍した幕臣であったにもかかわらず、新政府軍に対する対応は真逆だった。しかし勝と同様、榎本の「生き様」も、日本国の将来のため、そして自らが責任を持つべき旧幕臣の生活のためという、公益的な目的を果たすために奔走したものだと評価できるのではないだろうか。

参考文献

・「榎本武揚」加茂儀一著・中公文庫
・「勝海舟」石井孝著・吉川弘文館
・「地図でスッと頭に入る幕末・維新」木村幸比古監修・昭文社

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