いちばんたいせつなことは、目に見えない~星の王子さまと死荷重~

秋の夜長、子どもの頃大好きだったサンテグジュペリの小説「星の王子さま」を、久しぶりに読み返した。冒頭から最後まで、この児童書はひとつのメッセージをひたむきに伝えている。

「本当に大切なものは目に見えない」

目に見える数字と評価が全てである大人たちにとって、こんなことを真面目に言う人がいたら「またまた、ご冗談を」と一笑に付すだろう。しかし、星の王子さまが今でも世界中で読まれ続けているのは、このメッセージが世の中の真理であることを、忘れたふりをしながらも、私たちはどこかで知っているからなのだ。

ここでは、経済学における「死荷重」を例に、「シアワセの総和」について考えてみたい。

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コロナ下でばらまかれた補助金の「負債」

コロナ下でばらまかれた補助金の「負債」

コロナ下で導入された中小企業向けの実質無利子・無担保の「ゼロゼロ融資」で、約1兆円が回収不能または回収困難な不良債権になっているというニュースが最近話題となった。

22年度末時点の貸付残高は14兆3085億円、このうち回収不能もしくは回収不能として処理中は1943億円、回収が困難な「リスク管理債権」(不良債権)が8785億円、計1兆728億円で、総額の約6%にあたるということだ。

こういった話が出ると、すぐに「その回収不能のお金ってだれが最終的に負担するの?」というわかりやすい論点に注目が集まる。

当然、ゼロゼロ融資は公的機関の信用保証協会がその元本の返済を肩代わりしているため、最終負担は税金=国民である。そして今回も例にもれずメディアは、新たな危機をスクープしたかのような報道を行い、私たちの不安をあおる。

不良債権の場合、そのわかりやすさはニュースにしやすい。「貸した金が返ってこない」→「それを肩代わりするのが国民」→「ずさんな貸し出しを行った国が悪い!」という調子だ。マジョリティーの賛同を得ることがメディアの宿命だとすると、面白いネタだろう。

しかし、コロナ下で行われた政策はゼロゼロ融資だけではない。コロナ以降大量にばらまかれ続けている「補助金」も、ゼロゼロ融資の焦げ付きと同じく責められるべき存在であるはずだが、あからさまな補助金の不正受領以外、あまり非難の対象とならない。なぜなら、その負債は目に見えないからだ。

補助金は「みんなのシアワセ」をこっそり減少させる

補助金は「みんなのシアワセ」をこっそり減少させる

「死荷重」という言葉がある。経済学では「資源配分の効率性の損失」を意味する。「資源配分の効率性」と言われてもまったく実感がわかないため、わかりやすく「みんなのシアワセの総和が、減ること」と言い換える。

経済学において「シアワセ」は「余剰」と呼ばれている。会社にとっては利益、消費者にとってはモノやサービスの購入などから得られる満足度のことを指す。

消費者の満足度とは、例えば、「こんなサービスだったら1万円払うけどな」というサービスを8,000円で得られるとすると、その差分2,000円が消費者にとっての「シアワセ(余剰)」である。

補助金の導入はそのシアワセ(余剰)を減らす、というのがミクロ経済学のセオリーである。

ただし、ミクロ経済学では「完全競争市場」という生産者も消費者も無数に存在し、商品は同質で、参入障壁がない市場が前提とされている。

そんな現実にはあり得ない世界で、補助金を導入すると、供給曲線が右へシフトし、増加した余剰が政府支出分を上回らないので総和としての余剰が減少するということが起こる(詳しくは「補助金 需要供給曲線」でgoogle検索)。

補助金で消える客のロイヤリティーと店の努力

補助金で消える客のロイヤリティーと店の努力

しかし、実際は消費者が無数に存在する「完全競争市場」などは存在しない。

我々は物理的な制約に縛られた消費活動を行い、参入障壁はいかなるビジネスであれ存在する。そしてお気に入りのコーヒー屋と、そうでないコーヒー屋の差異が明確にある世界に生きている。

そんな我々の世界では、死荷重はおそらく以下のように、形を変えて現れる。

A店とB店というコーヒー屋があるとする。どちらも300円のコーヒーを1日100個売って3万円を売上げる。どちらもコスト2万円(材料費1万+人件費1万)を負担し、1万円の利益を出すことを命題としている。

国がAにだけ人件費に5千円の補助金を出すとする。するとA店は1万円の利益を出すためには、補助金を差し引いた2万5千円の売上を上げるだけで足りるようになる。

言い換えると、A店は300円のコーヒーの価格を250円に下げても目標利益額を達成できるようになる。A店は確実に目標を達成するため、価格競争を始める。

B店も250円まで価格を下げなければならなくなり、結局A店B店とも2万5千円の売上となり、利益は2店舗合わせて1万円、もともとの利益の合計額2万円より、1万円低くなってしまう。現実世界で発生している死荷重のイメージはこのようなものだろう。

需要と供給曲線のシフトによって余剰が減少するというシンプルな一文の内実は、補助金がなければ失われなかったであろう1万円の利益、すなわち300円負担してもそのコーヒーに価値を見出していた古くからのお客さんのロイヤリティーや、切磋琢磨のプライシングを行う老舗店舗のたゆまぬ努力の喪失である。

そして、それは「不良債権」のように、わかりやすくは目に見えない。

コロナ下の補助金による死加重

コロナ下の補助金による死加重

コロナ下で行われた補助金は多数あるが、その中でも目玉の一つが、現在でも行われている「事業再構築補助金」だろう。

詳細は割愛するが、補助金設立の本来の目的は、企業の「革新的な」新規事業の成長に資することであった。しかし、その企業にとっての新規性・革新性さは求められても、事業そのものとしての新しさは求められていない。

当然すでにある参入しやすいビジネスモデルが量産され、例えばグランピング施設やゴルフ練習場などが本補助金を通じて多く採択されている。

私の近所にも近年インドアゴルフ練習場が急増し、もともと通っていた古くからある練習場は苦戦を余儀なくされている。そのことを、先日練習場のスタッフから愚痴られた。

まさに前述のコーヒー屋の事例のように、見えないとされている死荷重を肌で感じた瞬間である。

目に見えないものにこそ、思いをはせる

コロナ下において緊急措置的な色合いが強かった当該補助金だが、そろそろ3年目となる今、あり方を考え直す時期ではないかと考える。

コロナ騒動が終焉した今、一定のフォーマットで同じようなビジネスモデルを量産することで救える窮地などなく、革新性・新規性の欠落した事業計画は単に総体としてのシアワセを減少させることを肝に銘じなければならない。

申請側、採択側は言うまでもなく、支援者であるコンサルタントにも不可欠な視点であるし、補助金に限った話ではない。

少し話は飛躍するが、結局のところ、経営理念などにうたわれる通り、目には見えないヒトのシアワセを追求することが、あらゆる事業の命題である。

事務所の壁に高々と掲げられたそれを、すっかり忘れてフォーマット化し具体化し、数値化することばかりに気を取られがちだが、それらのことは本質ではない。

星の王子さまよろしく、人のシアワセの何たるかに思いをはせることができる支援者に、なりたいものである。

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