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人類の英知➅ 語りえぬものについて語る。「無限」とは何か 2/2
前月に続き、天才たちが語りえぬ「無限」についてどのように語ったのかを書きます。
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人類の英知⑤ 語りえぬものについて語る。無限とは何か
「我々は知らねばならない。我々は知るであろう」
前月号では、無限がいかに不思議なものであるかを示しました。「う~む」と考えられたことと思います。
天才カントールが無限に取り組み始めたとき、当時の数学界の大物クロネッカーはカントールを糾弾しました。クロネッカーは無能どころか優れた数学者であったのですが、カントールの無限理論を理解できず、それどころか議論をすることさえ不毛と考えたのです。クロネッカーの有名な言葉に「自然数は神が創り給うた。他の数は人間が勝手に作ったものだ」があり、自然数以外を一切受け入れようとしなかったのです。
たしかに、無限に関する理論は摩訶不思議で、開拓者カントールでさえ、自分の理論を友デデキントに送った際に「我見るとも、我信ぜず(原文はJe le vois, mais je ne le crois pasだそうです)」と書いたほどです。
大物による排斥、そして無限の奥深さの結果でしょうか、カントールは精神に異常をきたしてしまいました。
一方、同じく天才数学者ヒルベルトは、「カントールが創ってくれた楽園から何人たりとも我々を追い出すことはできない」と、カントールを理解、擁護しました。
ヒルベルトは、19世紀最後の年1900年に、「人類が解くべき23の問題」を掲げました(かっこいいです)。そして1930年、これらの問題に対して、「我々は知らねばならない。我々は知るであろう(こちらの原文はWir müssen wissen — wir werden wissenだそうです)」と高らかに宣言したのです。その第一問目を、カントールが悩んだ「連続体仮説」としました。
それでは、以下、カントール、ゲーデルなどの天才が無限についてどのように思考したのか見ていきます。
数えるとはどういうことか?
無限を語るために、まず、「数える」を定義する必要があります。「数えられるかどうか」は「1:1対応ができるかどうか」と言い換えることができます。例えば、林檎が五つ、蜜柑が三つあるとします。
一つずつ対応させていき、林檎が二つあまるので、林檎のほうが多いということがわかります。そんなこと当然ではないかと?そうでしょうか?
では、次はどうでしょう。自然数、偶数、奇数の数は同じでしょうか?違うでしょうか?
自然数 1 2 3 4 5……
偶数 2 4 6 8 10……
奇数 1 3 5 7 9……
言うまでもない、偶数の数と奇数の数が同じで、自然数の数はそれぞれの2倍でしょ?と思われるかもしれませんが、違います。
さきほどの林檎蜜柑理論でいくと、自然数、偶数、奇数はすべて1:1対応できることになります。すなわち、自然数の数と偶数の数と奇数の数は同じということになります!
無限の世界では常識が通用しないのです。
そして、この「数えられる無限」=「可付番無限」のことを、カントールはℵ0(アレフ・ゼロと読みます)と名付けました。「もっとも基礎的な」無限といったところです。
無限に大きさはあるか?
カントールは次に、実数の濃度はℵ0より大きいだろうかと考えました。その証明に使ったのが対角線論法として知られる独創的な手法です。理屈自体は難しい数学でも何でもないのですが、その意味するところは深淵です。
まず、考えられうるすべての実数を並べたとします。
1 0.256967385・・・
2 0.436596780・・・
3 0.973956140・・・・
4 0.094565822・・・
5 0.104967471・・・・・
6 0.・ ・・・・・
次に、上の下線を引いた文字それぞれに1をたしたものを並べた新しい数字を作ります。
すると、
0.34467・・・・
という新しい数字ができます。
これは、もとの「あらゆる数字を羅列した」はずのリストに含まれているでしょうか?いえ、ありません。どこかの桁がリストの数字と絶対に違っているからです。すなわち、1:1対応できない、実数は可付番ではない、すなわち、実数は自然数より多いということになります。背理法ですね。
カントールは集合に含まれる数の多さを「濃度」と呼ぶことにしました。すなわち、自然数の濃度<実数の濃度です。カントールは実数の濃度をcとしました。ℵ0<cなのです。
無限に種類がある!驚異的な発見です。人類史上はじめて、無限に一歩近づいたのです。
無限はきれいに並ぶか?「連続体仮説」
無限には濃度が違うものがあることがわかりました。次に、カントールは無限を「無限に」作れることも発見しました。
例えば{1,2,3}という三つの要素からなる集合を考えます。この三つの集合から、{空集合}、{1}、{2}、{3}、{1,2}、{1、3}、{2,3}、{1,2,3}という八つの集合を作ることができます。23=8です。これを一般化すると、元の集合ℵからは、2ℵという濃度の集合ができます。この二つの集合は1:1対応できない、すなわち、ℵ<2ℵとなります。
これと同じことをくりかえすと、いくらでも大きな集合を作れるということになります。ℵ0、ℵ1、ℵ2、ℵ3・・・、ℵ10・・・ℵ100・・・。無限が無限に続くのです。
次にカントールが悩んだのが、無限の濃度は連続しているか?でした。中間の濃度を持った集合は存在しないのか、です。無限の「階段」を上っていくと途中で落ちることはないだろうか・・・。
これが連続体仮説であり、ヒルベルトが20世紀に解かれるべき問題の筆頭に挙げた難問なのです。
我見るとも、我信ぜず ~ 線と面は同じ!
連続体仮説の証明の前に・・・冒頭で触れた、カントールが「我見るとも我信ぜず」と書いた発見は、線(一次元)と面(二次元)が「同じ」であることの発見でした。線と面が同じ???どういうことでしょうか?
図表の直線上の一点、どこでもよいのですが、例えば0.230945758としましょう。このように、どの点も0.x1x2x3x4x5・・・と表記できるはずです。ここで、少し工夫をして、x1x2x3・・・でなく、0.a1b1a2b2a3b3・・・と表記することとしましょう。とすると、これは同じ図表の点(a1a2a3・・・,b21b2b3・・・)と1:1対応できる・・・すなわち、直線上の点と平面上の点が1:1対応できる・・・すなわち、直線と平面は同じである!
不思議ですが、確かに合理的な説明です。直線と平面は明らかに違うのに、無限の世界では同じなのです。そのため、カントール自身、信じられなかったのです。
不完全性定理の衝撃
さて、連続体仮説に関する帰結です。
カントールは連続体仮説の証明に残りの生涯を費やし、一度はその証明、一度はその否定の証明に成功したと考えましたが、どちらも間違いでした。結局、精神が破綻し、証明を果たすことなく生涯を終えました。
この世紀の問題を解決したのはゲーデルとコーエンです。解答への過程は、数学者ではない我々が理解できるようなものではありませんが、その答えは驚くべきものでした。
ゲーデルは「不完全性定理」によって知られます。同定理は二つあり(第一、第二)、論理体系のなかで正しいのか正しくないのかを証明できない命題が存在すること(第一)、体系の無矛盾性を証明できないこと(第二)です。完全無欠な論理体系を構築できると考えていた数学界に衝撃を与えました。
ゲーデルは連続体仮説を否定しても体系に影響がないこと、コーエンは連続体仮説が正しくても体系に影響がないことを証明し、この二つによって、連続体仮説は正しいとも正しくないとも証明できないことが証明されたのです。カントールは原理的に証明不能なことに生涯を捧げたことになります。
不完全性定理が証明されたことは数学者にとって恐ろしいことです。なぜなら、自分が取り組んでいる問題が原理的に証明不能であるかもしれないからです。
まとめ
ウィトゲンシュタインは「語りえぬことには沈黙しなくてはならない」と言いましたが、無限という捉えどころのないものについて語れること、まさに人類の英知です。最後に、前回および今回の記述は非専門家によるものであること、申し添えます。
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