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産業再生機構「中の人」が振り返るカネボウ再建 〝亜流〟化粧品事業の譲渡を阻んだ社内ヒエラルキー
不良債権問題に揺れる2000年代前半、産業再生機構に託されたのがカネボウの再建だった。2003年の設立時に、企業再生を専門とする弁護士として機構に入った私は、後に共同でフロンティア・マネジメントを設立することになる松岡真宏ら異業種の専門家たちと、この大型案件に取り組むことになる。
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満を持して任された大型案件。失敗は許されない
1887年に東京綿商社として創業したカネボウは、戦前の1936年には売上高が民間企業で日本一になるなど、日本を代表する名門中の名門企業だった。戦後は多角化を進め、中でも化粧品事業は海外にも知られるブランドとなり国内2位になるまで成長する。しかし、祖業である繊維は不振が続き、化粧品事業を除いた業績は赤字で、2003年9月段階で629億円の債務超過に陥り約5200億円の有利子負債を抱えていた。
化粧品事業をめぐっては、花王との間で2003年10月に事業統合で一度、合意したものの、カネボウの一部の経営陣と労働組合が反発したことで白紙に戻っていた。
2004年2月、産業再生機構は、カネボウは化粧品事業を分社化した上でその株式を産業再生機構に売却する内容の支援決定を行い、その他の事業については、当該譲渡益等を活用して再建を図る第二弾の支援決定のために再建計画をまとめた。日本の産業再生を担って生まれた機構にとって、ようやく任された大型案件であり、それは絶対に失敗が許されない案件であることも意味していた。
カネボウの再建の柱は、まず、失敗した多角化経営をあらため、好調な化粧品と、それ以外の事業を分けることから始まった。チームに入った我々の前に立ちはだかったのが祖業である繊維事業を中心にまわる企業風土だった。化粧品事業をはじめその他の事業に携わる者は、繊維事業の幹部に厳しい意見ができないという風潮が根強く残っていたのだ。
それでも、「選択と集中」の必要性を説いて化粧品事業を分社化し、本体から切り離すことに成功し、最終的には、機構が保有株式を売却する際の競争入札の結果、最も好条件を示した花王が約4400億円で化粧品事業を買収することとなった。
〝祖業〟繊維事業の分離、我々が動くしかない
次に取り組んだのが、繊維事業からの撤退だった。多角化したカネボウの事業の中でも祖業である繊維は別格の扱いをされていた。そこに手を入れることは、日本の大企業ならではの社内ヒエラルキーと真正面からぶつからなくてはならなかった。
事業としては不振を極めているにもかかわらず、社内における繊維事業の存在感は一番大きく、安定的に稼ぎを生み出していた化粧品事業は〝亜流〟という扱いを受けていた。一方で再建計画を引っ張る立場となった当時のカネボウの社長の中島章義氏は化粧品事業出身だった。そんな〝亜流〟の中島氏が、祖業である繊維事業からの撤退を容易に決断できる状況にはなかった。
中島氏が動けないなら、機構の我々が動くしかない。それは外部から来た自分たちの使命であると自覚し、繊維事業からの撤退に難色を示すカネボウの幹部や社員の説得に心血を注いだ。「もし、不振な事業をこのままの状況で維持しつつづけるなら、カネボウという船全体が社員と一緒に沈んでしまいますよ」。そう言って、関係者に説明してまわった。
解雇ではなく撤退、社員の生活のため説得に奔走
強調したのは、撤退と解雇は違うということ。繊維事業はカネボウの中にあっては不振だが、カネボウ以外の会社に移ったなら、成長できる可能性は十分にあった。実際、繊維事業の支援に手を上げるスポンサーもいた。
赤字のまま厳しい環境に置かれていたら、祖業である大事な繊維事業も大幅に縮小させることにより、いずれなくなってしまうかもしれない。それよりも、カネボウの繊維事業を受け継いで発展させられる事業シナジーを持った会社に任せる方が、賢明な判断ではないか。特に、これまで尽くしてくれた社員とその家族の幸せと今後の生活を考えた上で、いずれが良いのかを決断して欲しい旨丁寧に説明し、議論を尽くそうと心がけた。
そんな交渉の努力が実り、2005年3月、繊維事業のうち綿と合繊・樹脂部門を染色大手のセーレンへの譲渡で合意することができた。合わせて、羊毛やガラス繊維などなど繊維事業の別部門についても成長が見込める会社への譲渡を進めた。
これにより、当該事業に携わっていた従業員は共同出資会社に引き継がれた。その結果、カネボウは家庭用品、食品、薬品を中核とした再建計画を策定し、その後にそれを実行できるようになった。カネボウの繊維事業が築いた118年の歴史に幕を下ろす決断ではあったが、コア事業とノンコア事業を分離し、再建を図る代表的なモデルケースになったと考えている。
多角化の失敗、内向きの思考が潰した再生の芽
カネボウ再建が日本経済に残した教訓は何だったのか。失敗してしまった多角化経営では、繊維をはじめ昔から続けてきたものを残しながら、新しいことをやろうとして立ち行かなくなった。その時、俯瞰した視点を持って、ポートフォリオの入れ替えを決断できていたら、シナジーのある事業を見定めることができたかもしれない。申し上げたいのは、多角化自体は決して間違った経営手法ではなく、むしろ成長のために有力な事業戦略であるが、多角化した事業の事業性を随時見極めることなく、漫然と持ち続ける戦略を採用することは間違えた考え方であるということだ。
実際、化粧品事業を結果的に花王に約4400億円で売却できたのは、花王にとってカネボウの持つ化粧品事業のブランド力が魅力的だったからだ。既存の化粧品事業にカネボウブランドが加わることで花王は事業をさらに発展させられる。また、残った家庭用品、食品、薬品を中核としたカネボウ(現クラシエ)も、アドバンテッジパートナーズ他のファンド連合に売却し、結果として、機構は、カネボウの投資と株式売却等により、数百億円の利益を得ることができた。万が一、損失を出した際には、税金で穴埋めすることが懸念されていただけに、カネボウへの投資と株式売却は、機構にとって大きな成果となった。
カネボウの場合、産業再生機構という国家機関が担わざるを得ない状況になってしまったが、本来なら、それは企業が自助努力でやらなければいけない。カネボウ再建の足を引っ張っていた祖業とそれ以外の事業の間にはびこる社内ヒエラルキーは、どの企業にも存在するものだ。その壁を自社だけで打ち破れないのなら、コンサルティング会社や投資ファンド等の外部の手を活用してでも、断行する。そうしなければ、変化の激しい時代、会社を存続させることはできないし、何より従業員の雇用を守ることも難しいだろう。
日立、ソニー、劇的復活を遂げた企業の共通点
カネボウ再建で我々が奔走した2000年代のはじめ以降、企業が自主再建をして復活を遂げるケースは生まれている。
日立製作所は2009年3月期に、約7800億円の純損失を計上した。翌年の2010年に社長となった中西宏明氏は、ハードディスクドライブや液晶パネルの事業を切り離すことを決断する。そして、鉄道や電力設備などのインフラやデジタル分野に力を注いだ結果、2012年3月期には過去最高の純利益を出すV字回復を遂げた。ソニーグループは、2012年に社長になった平井一夫氏がパソコン事業からの撤退を決め、その後に社長となった吉田憲一郎氏の手でゲームなどエンタメ事業と半導体を柱にした新しい分野の成長企業に生まれ変わった。
歴史の長い日本の大企業であっても、外部と同様の視点を持ち、変化を恐れない経営陣は生まれているし、そうでない場合でも、カネボウ再建で機構が果たしたように、外部の力を使って、会社を変えていくのも有効な手法だろう。
会社から事業へ、経営者に求められているもの
残念ながら、その後も、外部の視点を持てなくなった結果、不祥事等で転落した企業も少なくない。
2015年4月に不適切な会計で損失や利益の水増しが発覚した東芝は、アメリカの原発子会社が破綻したことで債務超過に陥った。その後も経営の混乱が続き、最終的には非上場企業となって投資ファンドを主軸としたスポンサー等の傘下で再成長を目指すことになる。中古車販売大手ビッグモーターを巡っては、2023年に自動車保険の保険金を水増し請求した問題が発覚したため、旧経営陣が退陣するとともに、新聞報道等によると、外部のスポンサー下で再建を図ることを模索している。
カネボウでは、会社を表面的に守ることが優先されすぎた結果、本質的な視点で事業戦略を考えることができず、最終的には粉飾という不正に手を染めることになった。そうした不正を許してしまう土壌が、その後日本企業から一掃されたかというと、そうとは言い切れない現実がある。問題が発覚してからでは遅い。今の時代、一つの不祥事が起きれば、それが大企業であっても命取りになってしまう。それを防ぐための内部通報の制度や企業風土改革は、今後も各社が重点的に整備していかなくてはいけないだろう。また、自分たちは大丈夫だと経営陣が思っている企業ほど、危ない面があるように思う。
会社を表面的に守るのではなく、会社経営の本質に立ち返って、会社を本質的に守るために我々は何をすべきか、ということを経営者は常に自覚しておかなければならない。
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