読了目安:15分
いま知っておきたい「人的資本経営」への道 次世代の経営人材育成に必要なこと
製造業(有形固定資産ベース)から、情報や人材といったサービス業(無形固定資産ベース)が社会の中心になりつつある現代において、人材を最重要な資本として経営に生かす「人的資本経営」が注目されている。本稿では「人的資本経営」に取り組む上で重要なポイントを解説する。
「無形資産」が多いアメリカ企業と「有形資産」が多い日本企業
内閣官房が2022年6月7日に公表した「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」で、「人への投資」は新しい資本主義に向けた4つの重点投資の1つとして取り上げられている。
背景には
1 人口減少社会における慢性的な人手不足の中、優秀な人材の獲得が困難な状況にあること
2 グローバル企業の時価総額に占める無形資産の割合が有形資産よりも高い状態にあるのに対して、日本企業の無形資産の割合が極めて少ないこと
が挙げられる。
下記の図表1から明らかな通り、アメリカ市場におけるS&P500銘柄の企業時価総額に占める無形資産の割合は年々増加しており、2020年は時価総額の90%を無形資産が占めていた。企業価値評価において非財務情報に基づく評価が主要な割合を占めているのに対し、日本市場における日経225銘柄の企業は、未だ有形資産の割合が大きい。
人材版「伊藤レポート」が指摘する日本企業の課題
経済産業省は2022年5月、「人材版伊藤レポート2.0」を公表し、2年前に公表した「人材版伊藤レポート」の内容をその後の環境変化も考慮してさらに具体化している。
その両レポートが一貫して指摘している企業の人事面における最重要課題は、「経営戦略と連動した人材戦略の実践」だ。
各企業において、人事部門が必ずしも経営戦略に連動した人事戦略を実践しておらず、人事部門内の閉鎖的な思考に基づいて仕事をしているのではないか、との懸念が大きいのである。
上記2つの「人材版伊藤レポート」では、経営陣が主導して策定・実行する「経営戦略と連動した人材戦略」について、以下の通り、3つの視点(Perspectives)と5つの共通要素(Common Factors)を示している。(図表2参照)
【3つの視点】
① 経営戦略と連動しているか。
② 目指すべきビジネスモデルや経営戦略と、現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか。
③ 人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか。
【5つの共通要素】
① 目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、多様な個人が活躍する人材ポートフォリオを構築できているかという要素があるか。(「動的な人材ポートフォリオ」)
② 個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境にあるのか。(「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」)
③ 目指すべき将来と現在との間のスキルギャップを埋められているか。(「リスキル・学び直し」)
④ 多様な個人が主体的、意欲的に取り組めているか。(「社員エンゲージメント」)
⑤ 時間や場所にとらわれない働き方ができているか。
重要度が増す企業の「非財務情報」
人的資本に関する情報は、いわゆる「非財務情報」だが、昨今は企業価値に占める無形資産の割合が上昇するのに伴って、企業経営や投資判断における非財務情報の重要性が増している状況にある。結果として世界的にも非財務情報に関する開示の要請が高まっているのだ。
また、2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードでも人的資本に関する記載が盛り込まれている。内容は以下のようなものである。
① 企業の中核人材における多様性の確保に向けて、管理職における多様性の確保(女性・外国人・中途採用者の登用)についての考え方と測定可能な自主目標の設定
② 中長期的な企業価値の向上に向けた人材戦略の重要性に鑑み、多様性の確保に向けた人材育成方針・社内環境整備方針をその実施状況と併せて開示すべきこと
③ サステナビリティをめぐる課題への取組として、人的資本等への投資等について、自社の経営戦略・経営課題との整合性を意識しつつ分かりやすく具体的に情報を開示・提供すべきであること
人的資本経営における重要なこと
人的資本経営においては、まず「企業において育成または確保すべき人材とはどのような人材か」を考えることが重要だろう。
新型コロナウイルスによる事業環境の変化や環境施策重視の世界的トレンド、米中対立による安全保障視点の重要性増大など、変化が激しく複雑な経営環境が続いている状況において、「柔軟かつ創造的な思考の下で、企業の進むべき道を大局的に考え、新規事業または企業の変革に積極的チャレンジできる人材」(以下、「期待人材」という)を育成することはより重要になっている。
加えてそのような経営環境では、一人のリーダーが自分だけの知識と能力で判断するのではなく、「性別・国籍・専門性において多様な人材」を企業に集約し、彼・彼女らの英知を結集して業務を推進することが重要となる。
ただ、期待人材を育成・採用したとしても、その人材が高いモチベーションで働く状態が維持されない限り、宝の持ち腐れの状態となってしまう。そうならないためにも、期待人材が満足する報酬を支給するだけではなく、
① 若手時代から一定の裁量を与えられること
② 自己の能力を伸ばす機会があること
③ 自己の成果をきちんと実力に応じて評価してくれる環境にあること
④ チャレンジすることが人事評価上プラスになる企業であること
⑤ 一緒に仕事をしやすい尊敬すべき上司や仲間がいて、雰囲気の良い会社であること
などが重要になる。
その意味で、
◎人事制度(評価面・雇用条件面)
◎人材育成(能力開発)
◎企業文化・企業風土
の3つは、期待人材が継続的に企業で活躍するための大前提として重要な要素だ。
さらに期待人材が大きな活躍をするためには、企業における「パーパス(目的・志)」が明確で、それを目指して「組織(ガバナンス)と経営戦略」が整備されている企業であることが重要となる。短期的利益のみを志向し、目の前の課題の解決のみに力点を置く会社では、期待人材が創意工夫をしてチャレンジをする雰囲気の醸成は困難だ。
また、期待人材の創意工夫も「パーパス(目的・志)」が明確でない限り、自らの活動の方向性が定まらず、成果を発揮しにくい。
このような人的資本経営に重要な要素のイメージを図示したのが、下記の図表3である。
本稿では、そのなかでも期待人材を確保するための基盤となる「人事制度(評価面・雇用条件面)」「人材育成(能力開発)」「企業文化・企業風土」を中心に解説したい。
企業文化と風土を変えるために必要なのは「経営者の意志」
人的資本経営を行う上で、期待人材が伸び伸びと自らの能力を発揮しやすい企業文化・企業風土が重要な役割を果たす。
ただ、大企業の場合、保守的な企業風土を有している会社が少なくない。新規事業を推進する場合、成功確率はどうしても低くならざるを得ないが、保守的な会社では自ら担当した新規事業が失敗すると、社内でも失敗者としての評価が定着し、その後の出世などに悪影響が生じる場合が多い。
そうした環境では新規事業にチャレンジすること自体がリスクとなってしまい、期待人材の活躍する機会を奪うことにもなりかねない。
このケースへの対策は、人事評価制度を修正してチャレンジすること自体をプラス評価にする方向での解決策が考えられる。しかし、実際に新規事業によって少なくない損失を出した期待人材に対し、その失敗を考慮せずにプラス評価をすることが本当に可能だろうか、と多くの賢い期待人材は考えてしまう。その結果、期待人材は最終的にチャレンジ自体を躊躇してしまうことになってしまうのだ。
つまり新規事業は結局のところ、トップである経営者(社長)がリスクを取って推進役兼最終責任者となり、そこに期待人材をアサインし、その評価自体も経営者がコントロールするしか方法はない。それと同様に、保守的な企業風土を変革するためには、経営者自らが風土改革のための組織改革などを実行し、風土変革のために頻繁に社員向けのダイレクトコミュニケーションをすることが重要なのだ。
期待人材を多く採用・育成すれば、結果として企業風土は良い方向に変わるという考え方がある一方で、企業風土の良くない会社では期待人材が定着しないため、期待人材の育成・採用と企業風土改革は「卵と鶏の関係」にあると言わざるを得ない。だからこそ経営者が自ら期待人材が定着しやすいような企業風土に変革をすることが、人的資本経営において大変重要な要素と考えられるのだ。
人材育成で特に必要な能力とは
日本企業の人的投資(OJTを除くOFF-JTの研修費用)は、2010-2014年に対GDP比で0.1%にとどまっており、アメリカ(2.08%)やフランス(1.78%)など先進国に比べて低い水準にあり、また最近では益々低下する傾向が著しい。(図表4参照)
人的資本経営における「期待人材の育成」で重要な点は、学ぶ機会の提供である。事業環境の急速な変化や価値観の多様化に対応するためにも、経営人材の育成のための専門的な教育やマネジメントとしての教育が必要となる。
その場合、会計・財務、マーケティング、経営戦略策定、事業計画策定、経営法務、M&A、ファイナンス、リストラクチャリング、リーダーシップなどの経営に必要な様々な分野での教育研修が想定される。
ここで重要なことは、「チームビルディング力」と「組織を巻き込む力」である。企業の教育研修では一般的に個人の座学やケーススタディ、グループワークなどを行う場合が多いが、組織の中で個人が力を発揮するには、個人の専門能力が高いだけでは難しい。
組織を動かしていくためには他メンバーの共感を得ながら、メンバーを巻き込んで仕事を推進していく力が重要である。また、企業の経営人材にとって必要な能力は個々の会計、法務、ファイナンスなどの専門家としての能力ではなく、これらの専門家を使いこなすための知識と能力である。このため、全体的な大局観を持ちながら他メンバーや専門家を巻き込み、集団を動かしながら業務を推進していく力を鍛えることが重要なのだ。
そのためには研修メンバーをグループに分け、一定期間においてミッションを遂行していく中で、チームビルディング力と組織を巻き込む力の養成を行う方法が適している。
どうすれば優秀な人材が日本企業に定着するか
日本ではかねてより新卒一括採用と終身雇用、そして年功序列雇用を中心としたメンバーシップ型雇用が中心であり、現在もそのような雇用体系をベースとして採用している企業は少なくない。
しかしながら、このような雇用環境では若手のうちから自己の能力を高めたいと考えている期待人材は早期退職をして起業したり、コンサルティングファームに転職したりしてしまう場合が多い。
また、中途入社で期待人材を採用しようとする場合、年功序列賃金体系との整合性の確保から満足できる雇用条件の提示ができずに採用が思うようにできない場合や、採用ができたとしても、プロパー人材重視の人事慣行に阻まれ、なかなか外部人材が活躍できない場合も多いだろう。
こうした課題に対して昨今、性別・国籍・専門性の面で多様な人材を確保する視点から、常時中途採用を進める企業が増えているのだ。このような企業は採用するポストに求められる職務内容を明確にし、その職務の遂行に必要なスキルを有する人材の活躍を促すジョブ型雇用を推進する場合が多い。
しかしながら新卒採用においては、IT専門職などは別として、最初からジョブ型雇用を推進することは容易ではないだろう。ただし、新卒入社後に一定期間(5年ないしは10年)をメンバーシップ型雇用で様々な職種を経験してもらい、その後に本人の希望でジョブ型雇用に転換するというやり方は今後の日本企業でも広がりを見せる可能性はある。
ジョブ型雇用の場合、評価制度も該当するジョブの職務内容に応じたパフォーマンスが発揮されているかどうかで行われ、雇用条件も年功ではなくあくまで担当するジョブによって決まる。
ジョブ型雇用が浸透するとメンバーシップ型雇用の良さである「会社の全体的な業務をバランスよく経験する機会」が少なくなるという懸念があるが、様々な職種のジョブをバランスよく経験することが重要と考える人材は、自ら希望してメンバーシップ型を選ぶだろうし、逆に専門家として仕事を極めたいと思う人材は、一つの職種を長期間経験することによって、他に負けないような専門スキルを学んでいくだろう。
人材が慢性的に不足するという傾向は今後もますます強まるだろう。さらに優秀な若手人材ほど、一つの会社に就社して一生をそこで暮らしていくのではなく、早期に経験を積み、起業や転職でステップアップする傾向がある。
こうした環境では、会社が優秀な人材を採用して自社の方針で中長期に育てていくメンバーシップ型雇用よりも、優秀な人材が自分の能力を早期に向上させられる会社を選んでいくのに適したジョブ型雇用がうまく機能するだろう。そのため、ジョブ型雇用を自社の雇用スタイルに採り入れ、それを早期に習熟した企業こそが今後も飛躍的な発展を遂げるのではないだろうか。
そうした企業になるためには、優秀な人材が自己の能力を伸ばせると考える魅力的な職種・ポジションを多様に用意し、社員が自らの次の職種を希望して移籍できる制度(FA制度)の確立も重要だろう。
社員教育にかける時間と費用の少なさに危機感
人的資本経営で重要とされる社員教育については、その重要性が従来から指摘されてきた。しかし、そうした社員教育に時間と費用をかける日本企業はまだまだ少ないことに、私は大きな危機感を感じている。
当社はコンサルティング業務を行う一方で、近年は企業向けに経営者人材育成支援業務を推進している。当社のサービスの特徴は、基礎的・実践的な専門知識の伝授だけではなく、実践的な経営課題を題材にして、グループで組織力を発揮させる力を養うことに力点を置いている。今後は、顧客企業の人的資本経営を全面的に支援することに注力したサービスを強化していく予定である。
コメントが送信されました。