社史を読むことは、企業調査の基本の「キ」

社史を読むことは、企業調査の基本の「キ」

その企業の、巨視的(マクロ)な情報を得るには社史ほど優れたものはない。

筆者は、野村総合研究所の証券アナリストとして社会人をスタートした。調査対象の企業が決まった時、最初の指示は社史を読むことだった。企業調査の基本の「キ」と教わった。

当時はインターネットがなく、図書館などで社史を入手した。野村総合研究所には書庫もあり、社史だけでなく、1970年代からの新聞の切り抜きが企業毎に保存してあった(現在も存在していて欲しいと思う)。各企業の客観的過去と向き合える良好な環境が整っていた。

各企業の現在を形作っているのは、その企業が創業より存在してきた社会空間で醸成された文化的資本だ。各社の“今”を産み出した文化的資本を理解するには、社史(あるいは社史に準ずるもの)以上の材料はなかろう。

対象企業に対するインタビューによってのみ、その企業を理解しようとすると、いきおい微視的な情報が多くなる。
それらの情報は、現在の経営陣がそうであって欲しいと考える、主観的な過去をコラージュしたものである。(『「前経営陣批判」の罠 現経営陣のネガティブ・バイアスを見分けよう』(2021年7月15日)を参照)

もちろん、社史を編纂した時期の経営陣のバイアスはあるにはあるのだが。より、巨視的な視点で企業をみられるのは、間違いない。

きっちりと編纂された社史がない企業の場合、ウェブで手に入るだけのその企業の歴史に目を通しておくことをお勧めしたい。

自由意志による嗜好や行動を否定したブルデュー

自由意志による嗜好や行動を否定したブルデュー

どうして、歴史的背景を含めた巨視的な視点で、企業を分析するべきなのか。

フランスの哲学者ブルデューを例に述べたいと思う。

あなたが、野球では大谷翔平選手のファンであり、映画ではリドリー・スコット監督のファンだったとする。

また、ジムに週に一度行き、アルコールはワインが好みだったとする。我々は一般的に、これらの嗜好や行動が自らの自由意志で形成されたものと考える。

これに異を唱えたのが、フランスの哲学者ブルデューだ。彼は、1979年に出版した『ディスタンクシオン』(邦訳:石井洋二郎,1990年)で、個々人の意志・嗜好・行動は、個々人が生きる社会空間に蓄積された「文化的資本」によって決定されると唱えた。

同書名となっている「ディスタンクシオン」という言葉は、フランス語で「区別」や「差異」を指す。

「文化的資本」とは、金銭的な資本でなく、教育や文化など非金銭的な資本を指す。

文化的資本の多寡や内容、日常の経験が無意識に蓄積され、その社会空間で育った人々の思考・行動パターンに影響を与える。

そうして、個々人の嗜好が自由意志ではなく外生的に決定される。

大谷翔平やワインを好むのは、個人の自由意志の結果ではない。各人が生きてきた社会空間によって、その嗜好になるように我々が設計される、という理論だ。

『ディスタンクシオン』への評価は高く、1998年に国際社会学会によって、20世紀の最も重要な社会学書10冊のうちの1冊に選出された。

企業について分析する時も、その企業がどのような歴史的背景で創業し、どのように発展してきたか。どのような経営環境にあり、どのような変遷をたどってきたのかを知ることをしなければ、現在のその企業を深く知ることはできない。

ブルデューと相いれない思想

一方で、我々人間の自由意志を、ある意味否定するブルデューの理論に対しては、相いれない論理を主張する思想も少なくない。

フランスの哲学者サルトルらが唱えた実存主義はその最右翼であり、自由意志こそが我々人間の実存の基礎という概念だ。
ブルデューの『ディスタンクシオン』をサルトルが読んだら“嘔吐”(サルトルは『嘔吐』という小説を出版している。邦訳:白井浩司,1947年)するかもしれない。

古くは、ルソーら啓蒙思想家は、人間は生まれた瞬間は無個性で平等な存在であるという擬製された世界観を打ち出した。

啓蒙思想は、人間が生まれた瞬間から特定の社会空間による影響を受けているとしたブルデューの考えとは相いれない。

『嫌われる勇気』(岸見一郎 古賀史健 2013年)で一躍有名になった心理学者アドラーも、自由意志を信じている。

人間は環境によって影響を受けるのではなく、環境をどのように自己内で咀嚼するかで人生を変えられると説いた。

例えば、両親が離婚した子供が全て不幸になるのではなく、その事実を踏まえ、自由意志でどのように自分の人生を切り開いていくかが重要だと言っている。

マクロで見るか、ミクロで見るか

自由意志の存在を認めるか認めないか。

これは視点の置き方によって異なってくる。物事を巨視(マクロ)的に見るか、微視(ミクロ)的に見るかだ。

一般的に、受けた教育、住んでいる環境、職業などが同じ人々の趣味嗜好は似通ってくる。それが、親から子どもへと引き継がれ、「社会階層」が再生産される。

巨視的に見ると、教育や居住地によって形成される文化的資本が各人の趣味嗜好を規定する。

ブルデューの言う通りだ。

一方、個々人の人生に微視的に焦点を当てると、社会空間の文化的資本からは生まれ得ない特性や行動が見られる。

ブルデューの理論は巨視的で統計的な正しさだ。

自由意志での微視的な個々人の動きは自ずと統計的な平均値とは乖離が出てくる。

文豪の私生活

文豪の私生活

例えば、明治から昭和初期の文豪。

彼らは高等教育を受け(中退した人も多い)、理性も感性も発達した成人だ。

人の心を打つ、素晴らしい作品も発表している。

しかし、福田和也監修の『「文豪」がよくわかる本』(宝島社)によれば、文豪と呼ばれる人物には、私生活が乱れ、驚きの行動をとる人物が少なくない。

『初恋』という瑞々しい詩を世に出した島崎藤村は、家事手伝いに来ていた姪を妊娠させたまま、逃げるようにフランスへ留学した。(小説「新生」のモデルとなっている)

『一握の砂』で有名な石川啄木は、各方面からお金を借り、その足で遊郭通いをしていたことでも知られる。

微視的にみれば、人生いろいろ、だ。

微視的な事実は興味深さで溢れている。

当然、会社もいろいろ。同じような環境で創業した同じ業界の企業であっても、微視的にみれば大きく異なっている。

しかし、微視的な視点のみにとらわれ、背景にある歴史的、文化的背景を知ることなしに、その企業を深く分析することはできない。

京都に革新的企業が多い理由

京都に革新的企業が多い理由

例えば、京都には京セラ、日本電産、村田製作所、ローム、任天堂といった独自のポジションを築き上げた、革新的な企業が多い。

この理由については、明治以降の京都の歴史的背景を学ばなければ理解することができない。

明治維新後の京都は、東京への遷都によって公家や商人の多くが移住し、人口は約34万人から約23万人、つまり1/3も減少した。

現在進行している、少子高齢化どころのレベルではない。

中世の欧州ではペストで人口が1/3減少したとも言われているが、同様のマグニチュードで京都における人口減少が起こったのだ。

危機感を募らせた3代目京都府知事・北垣国道氏は、国家的事業とも呼べる灌漑事業「琵琶湖疏水事業」で京都を蘇らせようとした。

大阪に開校していた京都大学の※前身・第三高等中学校も京都に移転した。瀕死の京都に対し大規模な経済対策が実施された。

※形式的には、現・総合人間学部の前身

こういう社会空間で創業した経営者は、当時の危機感を色濃く残した経営をしただろう。

京都に本拠を置く企業で、新規事業や海外展開に積極的な企業は多い。また、京都の企業は事業領域も、企業文化もそれぞれ大きく異なり、独創的な経営で業績を伸ばしている企業も散見される。

明治維新後の京都を知らなければ、京都の老舗企業を深く分析することはできまい。
京都に本拠を置く企業や経営者を包み込んでいた当時の文化的資本を探る。産業や企業の分析はそこから始まる。

「社史」を読もう

企業分析において、直近の業績やインタビューだけでは、微視的な視点にとらわれ、その企業を深く知ることはできない。
「社史」を読むことは、やはり企業調査の基本の「キ」なのだ。

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