「大変革」の時代を生きる 渋沢栄一のリーダー像 ㊤激動の人生

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の放映が終盤を迎えている。明治期に入り、官僚や企業家としての活躍はめざましく、「近代日本経済の父」と呼ばれる人生が躍動的に描かれている。本稿では、農民、商人、武士、官僚、企業家とめまぐるしく立場を変えながら文字どおり日本の産業界の基礎を作った渋沢栄一の強力なリーダー像について、3回に分けて述べる。

シェアする
ポストする

大河ドラマの中の、渋沢栄一

 
大河ドラマの中の、渋沢栄一

▲写真説明 若き日の渋沢栄一の像(深谷市提供)

60作目となる大河ドラマ「青天を衝け」は、2021年12月26日に最終回を迎える。中盤までは栄一本人の活躍は少なく、苦悩する徳川慶喜に焦点が当たっていた。

後半の明治期に入り、栄一の官僚や企業家としてのめざましい活躍が描かれるようになる。

江戸から昭和まで、渋沢栄一は91歳(享年92歳)で逝去するまで様々な仕事に従事してきたが、その生きる姿勢は、一貫して「強く繁栄した日本を作る」という信念に基づいていた。

三つの側面でみる、渋沢栄一

三つの側面でみる、渋沢栄一

渋沢栄一は、約500社の企業と約600の公益事業に関与し、日本の産業界の基礎を作った偉大な人物である。栄一の人生は、青年時代において数々の仕事に携わったこと、中年から壮年時代に実業家として数々の実績を積んだこと、そして壮年から老年時代にかけて公益事業にも携わってきたという3つの側面で人物像を見ることができる。

以下に、それぞれの側面に関連する栄一の特徴を述べていく。

青年期「藍」農家・商人から倒幕に(ドラマ前半の振り返り)

青年期「藍」農家・商人から倒幕に(ドラマ前半の振り返り)

栄一は、自叙伝において、自らの青年時代につき必ずしも順調でない「逆境の人」であったと述べている。しかしながら、我々第三者から見て本当にそうであったのであろうか。

農家として、商人として

栄一は、天保11年(1840年)深谷市の血洗島の農家の家に生まれた。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けた。7歳からは、隣村に住んでいた従弟の尾高惇忠(富岡製糸場初代総長)のもとで「論語」をはじめとする学問を習った。

倒幕と攘夷への目覚め

ペリー来航とその後の日米和親条約締結等諸外国の度重なる日本に対する開国要求は、外国による侵略の危険性を感じる状況にあった。このような中、20代の栄一は、強い倒幕・攘夷思想を抱くようになり、尾高惇忠らとともに、高崎城を乗っ取り、横浜外国人商館の焼き討ちすることを計画したが、直前で中止された。

武士として一橋家に

武士として一橋家に

その後、栄一は、日本を変える仕事をするため武士になることを目指すとともに、焼き討ち計画を知った幕府から免れるため、いとこの渋沢喜作(成一郎)とともに京都へ向かった。

その際、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に重用されていた平岡円四郎の誘いにより、一橋家に仕官。慶喜が第15代将軍になり徳川幕府のトップに立ったことで、徳川幕府に対する疑問を持っていた栄一は、複雑な思いを抱きつつ、幕臣として活躍を始める。

訪欧中に倒幕→静岡で合本組織設立

 
栄一は、慶喜の弟・徳川昭武(民部公使)に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れる機会を得ることとなった。欧州の視察では、鉄道、金融、紡績、製鉄等の先進的な産業と経済制度を目の当たりにし、栄一は大いなる刺激を受けた。

しかし、渡欧している最中、徳川幕府が崩壊したことを知ると、栄一は民部公使とともに失意の下、帰国することになった。

▼参考記事
徳川慶喜、危機時のリーダーとしての評価は?  大河「青天を衝け」で大注目

帰国後、栄一は慶喜が謹慎している静岡に移住。そこで、静岡藩の了解を得て、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を設立した。

ここまでが、大河ドラマの前半部分である。

幕臣から、新政府高官に

幕臣から、新政府高官に

明治期に入り、ドラマは佳境に入る。
栄一は、慶喜を追討した明治新政府への仕官を打診された。
徳川幕府の敵であった明治新政府に協力する気がなかった栄一であったが、政府高官であった大隈重信から説得をされ、明治新政府に仕官することとなった。

栄一は、大蔵省で「改正掛」として勤務を始めた。この「改正掛」は、既存の部署を横断して新しい国作りのために必要な調査や提言を行う特命チームであり、栄一の提案に基づき新規に設置された部署であった。

現代の生活にも影響、重大な政策の数々

現代の生活にも影響、重大な政策の数々

ここで栄一が手掛けた施策は次の通りであり、いずれも日本の今後の基盤を形作る主要な施策ばかりである。

  1. 度量衛の統一
  2. 貨幣制度の統一(円、銭、厘)
  3. 近代的郵便制度の確立
  4. 鉄道の敷設
  5. 近代的銀行制度の創設
  6. 太陰暦から太陽暦への変更
  7. 株式会社普及のためのマニュアル策定
  8. 租税制度の改正

30歳を過ぎたばかりの栄一は、大蔵省で大活躍し昇進を重ねていく。

一方で、日本を豊かにするには商業(産業)の発展が最も重要であるところ、その点の遅れが甚だしいことを痛感した。

官僚から民間へ

官僚から民間へ

栄一は、当時の政府の方針とは意見が異なることもあり、民間人の立場で産業を発展させることに貢献することが良いと考え、明治6年(1873年)に上司であった井上馨と同時期に大蔵省を退官した。

大蔵省を辞めた後の栄一は、後述する通り、民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、第一国立銀行をはじめ約500社もの企業に関与していった。
このように栄一の青年時代は、外部環境の激しい変化もあり、紆余曲折を重ねながら仕事を転々と変えていった。

一見して節操のない渋沢栄一の人生

  1. 農民又は商人の子として育った少年時代から、徳川幕府という政府の打倒を図ろうとした。
  2. その後、打倒しようとしていた徳川幕府の中心人物である一橋慶喜に仕えた。
  3. 今度は、主君として尽くした慶喜を打倒した薩摩・長州藩を中心とした新政府に仕えた。
  4. 新政府を退官し、民間に戻って実業家になった。

栄一の職業の変遷は、一見して節操のないものと映る。

しかしながら、そのいずれの転職も、明治維新を挟んだ日本の構造転換時期であった時代背景からして、やむを得ない面があった。

むしろ、栄一にとっては、「日本を強く豊かな国に発展させたい」という気持ちと、栄一の数字に明るく商売が得意であるという特性により、そのような環境変化の中で、時代とともに随時最適な職業選択の判断をしていったと言っても過言ではない。

多彩な職業経験が生んだ実業家人生

多彩な職業経験が生んだ実業家人生

様々な仕事の経験と人的ネットワークがあるからこそ、栄一は、「民間人主導の日本経済の発展」を目指した壮年時代以降の実業家人生を選択することができたのである。

栄一が、もし最初から国内で商人道だけを邁進したのであれば、欧州視察に同行する機会もなく、明治新政府に関与することもなかったので、日本の産業基盤を創設するような重要な役割を果たすことはできなかったものと思われる。

民間の経済人(商人)と政府(幕府・新政府)の役人を両方経験するということで、多様な知識、経験と人的ネットワークが構築され、栄一の偉大な人生に貢献したものと考えられる。

逆境から順境へ

栄一の言う通り、栄一の青年時代における職業転換をした各時点では、「逆境の人」であったのかもしれない。しかし、その一連の職業の転換を糧にした結果、自らの積極性と努力で「順境な人生の人」に自らを変えていったのである。

次回㊥ 実業家としての渋沢栄一

コメントを送る

頂いたコメントは管理者のみ確認できます。表示はされませんのでご注意ください。

※メールアドレスをご記入の上送信いただいた方は、当社の利用規約およびプライバシーポリシーに同意したものとみなします。

コメントが送信されました。

関連記事